2020年4月15日号
室町時代の医療(4)
<天正4年の明智光秀と医師曲直瀬道三>
日本の歴史を中世から近世へと搖り動かした事件の一つが、「本能寺の変」であることはどなたも異存がないと思います。その片やの主人公「明智光秀」(1526 ~ 1582、惟任日向守、惟日)は美濃の斎藤道三、越前の朝倉義景に仕え、永禄11 年(1568)頃、40 歳を過ぎて尾張の織田信長(1534 ~ 1582)に巡りあい、仕えることになります。それから約10 年、天正4年(1576)、信長は岐阜城を息子信忠に譲り、新たに都に近い近江安土に築城しました。
光秀はと言いますと秀吉と違って信長の子飼の家臣ではなく、謂わば中途採用組でしたが、既に信長を支える重臣の一人に引き立てられていました。光秀は天正3年(1575)、信長の命で越前攻略平定した後、引き続き丹後攻めで出陣し敗北しますが、年明け4年(1576)4月に細川藤孝と共に「本願寺攻め」を命じられます。この本願寺とは、今大阪城がある場所にあった一向宗(浄土真宗)の本山で「石山本願寺」と呼ばれ信長の統一を阻でいました。5月3日と4日の激戦で光秀軍は苦戦をしいられ敗北します、そこで信長は7日に自ら出陣「午刻天王寺表へ御出勢之所、大石山本願寺坂衆即時敗北、二千余討捕云々」(『兼見卿記』)と敵方を蹴散らしたことが記されています(この兼見卿とは都の吉田神社の祠官吉田兼見(1535 ~ 1610)のことで神官ながら武将の光秀とは親しい間柄です)。そこで朝廷としても今や財政の大パトロンとなった信長を慰問するため、5月12 日公家衆を戦地摂津へ派遣することにしました。兼見も同道し、13 日に光秀の陣所も訪れています。ところが23 日、光秀に「惟日以外依所労帰陣、在京也、罷向、道三療治云々」の事態が発生します。光秀が陣所で所労(病)により都に戻され、医師曲直瀬道三(1507 ~ 1594)の治療を受けたというのです。案の定、6月12 日「一、明智十兵衛号惟任日向守、久風痢煩、明暁死去、坂本へ行云々」(『言継卿記』)という忌忌しい知らせが公家山科言継(1507 ~ 1594)に届きます。「死去」はデマでしたが、「風痢」を久しく患っていたようですから、5月に道三が診察した病の延長と考えられます。恐らく5月6月(現7月8月) の暑い盛りの戦場という過酷な環境で、強大な大将(信長)に仕える有能な家臣(光秀)が陥るストレス型過敏性腸炎(痢病)の類いと推察され、鬱的傾向もあったように思われます。坂本の自城で療養する光秀を兼見が7月14 日に見舞っています。一方の信長軍は翌15 日の大坂海上戦で本願寺共同軍に大敗します。そして夏が過ぎ9月19 日に山科言継(70 歳)が曲直瀬道三(同じく70 歳)を訪ねたところ、またまた道三は甥で後継者となる曲直瀬玄朔(1549 ~ 1631)を同道して坂本に光秀の往診に出かけていました。その後、光秀は平癒して10 月下旬には上洛して戦列復帰を果たしていますが、治癒までの長丁場を類推すると肉体的にも精神的にも頑健とは言い難い。しかし、光秀は主君信長に矢継早で過度な戦果を求められるというパワハラに翻弄されながらも信長の全国制覇の野望を実現させるために粉骨砕身の努力を惜しまぬ武将でありました、天正10 年6月2日、拭逆の時がくるまでは!
(京都医学史研究会 葉山美知子)