2020年8月15日号
⃝江戸時代初期の医療(2)
〈徳川家康・最期(さいご)の病〉
徳川家康(天文11(1542)年12月26日~元和2(1616)年4月17日)の医学薬学好みは玄人(くろうと)はだしであることは、よく知られていますが、それにも増して究極の趣味は“鷹狩”(飼育・訓練された鷹を山野に放って鶴・雁(ガン)など野鳥・小獣を捕らえさせる狩猟)でした。すでに幼少期、尾張(おわり)の織田信秀、駿河遠江(するがとおとうみ)の今川義元の人質となっていた頃から死去する直前まで終生鷹狩と縁が切れることはありませんでした。
さて、家康がこの国の覇王(はおう)になるための最期の戦いに取りかかったのは死の前年74歳、元和元(1615)年5月“大坂夏の陣”でした。徳川家の子々孫々に禍根(かこん)を残さぬよう豊臣秀頼と母淀殿、この豊臣一族を完膚(かんぷ)無きまでに根絶(ねだ)やしにしてしまいました。そして陣後も家康は幕府の体制固めに居城の駿府(すんぷ)と江戸城・関八州を往還しますが、その処々で鷹狩の日取りだけはしっかり確保しています。
年が明けて元和2(1616)年、家康にとっては70年ぶりの何事も起こらぬ平穏な正月を駿府で迎えました。さっそく5日に鷹狩を開始しましたが、7日は中止になっています。そして最期の病は1月21日に発症します。この日も駿府城から田中(現藤枝市田中町)に鷹狩に出かけましたが、夜半に腹痛を起こします。一説によると京の豪商茶屋四郎次郎(後藤庄三郎光次とも)が饗した榧(かや)の実(み)油で揚げた鯛の天ぷらにあたったといわれますが、その日は駿府城の侍医片山与安宗哲(1570~1622)の手当てと家康手製の万病丹を服用して回復しました。小康なった家康は25日、田中から駿府城に戻りました。1月30日の症状は「大御所(家康)様御気色弥御験記(お元気)に御座候。併(しかし)御膳いまた如常(つねのごとく)には上り不申候」でいま一つ気が抜けません。実は駿府のかかり付け医の宗哲では覚束無(おぼつかな)く、都から半井驢庵(なからいろあん)を呼び寄せ診察に及んだところ、食欲不振と喀痰、御虫指出など消化器官に問題ありとのことでしたが、驢庵処方の煎薬を家康は服用せず自身と宗哲が作った薬剤を好み、病状も一進一退の状況でした。3月17日も症状の好転はみられず「薬師衆(くすししゅう)之煎薬など一、二貼(ちょう)あかり候ても何と哉らん」で胸につかえて薬効はなく「御灸(きゅう)などやいとう(焼(や)き処(と))御きらい」と家康が治療に不平ばかりで医師団も困り果てます。「将軍(秀忠)様も御養生之(の)御異見など被仰上候(おおせられあげそうろう)」と息子秀忠将軍が父に養生の忠告をしようにも逆に反発される始末。3月27日は江戸から徳川家侍医典薬(てんやく)の曲直瀬道三(まなせどうさん)(初代道三の孫で2代玄朔の嫡子玄鑑(げんかん)(1577~1626)が1610年に3代目道三を継承)が駆けつけ診察しますが、脈が触れ難く嘔吐あり食欲なしの重篤状態でした。4月5日には発熱と痰(たん)、噦(しゃっく)りで息が苦しく11日には重体に陥り、4月17日巳(み)刻(朝10時頃)に駿府城で“一代の英傑・徳川家康”は齢(よわい)75歳(満73歳4ヶ月)の生涯を閉じました。病名は◦腹中に塊あり◦食欲なく嘔吐しきり◦痰と噦りが多い など諸症状を勘案すると「胃ガン」だろうと推察されています。
それにしても家康の生涯は戦(いくさ)で明け暮れましたが、私生活は70年余りの人生で◦妻妾(正室2、側室15)計17名を娶(めと)り、◦こどもは実子(男子11、女子5)計16名と養子(男子3、女子22)計25名で総計41名を数えます。まさに“人は城”を家康自らが血縁で構成し、江戸時代265年間の盤石の基礎を築いた人物といえましょう。
(京都医学史研究会 葉山美知子)