京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その19 ―

○江戸時代後期の医療(6)

〈幕末のシーボルト 1度目の来日〉

 シーボルト(1796〜1866)は、江戸時代末期(幕末)に2度、来日したドイツ人医師です。誕生地は南独バイエルン州・ヴュルツベルグで、シーボルト家は代々医学者を輩出したドイツ医学界の名門家系でした。彼も1815年、ヴュルツベルグ大学で医学のみならず植物・動物・地理・人類学を専攻、1820年(24歳)卒業して博士号を取得しました。阿蘭陀(オランダ)軍・軍医総監の阿蘭陀領東印度(インド)への医師派遣要請に対し、卒業まもない若きシーボルトが大抜擢され「阿蘭陀領東印度陸軍少佐医官」として、1823年(27歳)、広範な日本研究の使命を帯びて長崎の出島「和蘭(オランダ)商館」に7月6日(以下、月・日は陰暦)着任しました。彼の肩書は

◦外科 ひいとる ひりっぷ ふらんす はん しいぼると
◦医官 ドクトル フヰルツ(フイルツ) フランス ホオン シーボルト 年廿四歳
◦Dr. Philipp Franz von Siebold

と記載されています。1826年(文政9)は商館長(甲比丹(カピタン))が4年に一度、江戸城の徳川将軍に日蘭交易の御礼のため江戸に伺う「江戸参府」の年でした。彼は医官として随行します。

 さて、1826年の江戸参府行におけるシーボルトの大まかな旅程を記しますと

◦1月9日:長崎出島、出立、一行59名?以上
◦ 〃 16日:小倉 診療を始めると多数の患者が押し寄せる、慢性の皮膚病、眼病、梅毒、胸部・腹部疾患多し
◦ 〃 19日:下関 シーボルト門人や近隣の医者たちが患者を引き連れて助言、診断を求める
◦ 〃 23日:周防藩主、毛利元義侯付きの医官に薬品、蘭語医本、外科用器械を贈り、コーヒーを皆に勧めた
◦2月10日:京都 伏見上陸〜東福寺〜東山大仏(1788年天明の大火で焼亡し、跡のみ)〜河原町三条の海老屋着 医師小森桃塢、新宮凉庭(蘭語書籍最大のコレクター)来訪、歓談
◦3月5日:江戸 宿舎は長崎屋源右衛門
  〃 7日:江戸の名だたる医師、桂川甫賢・宇田川榕庵など多数来訪
  〃 11日:医師桂川甫賢、大名侍医大槻玄沢と医談
  〃 14日:幕府侍医立ち会いのもと、シーボルト自ら豚を使って眼の解剖及び手術の講義をする
  〃 19日:将軍侍医に眼科の書物、器械をみせ、ベラドンナで瞳孔を拡げる実験を公開、大喝采を浴びる、子供3人の種痘を試みた、家斉将軍(徳川11代)に謁見する、城番の家来を買収して江戸城の見取図入手、但し内部の防御施設の図面は入手不可
◦4月2日:幕府侍医たち、西洋医学の受講延長を要請するが将軍はシーボルトの滞在認めず却下する
◦ 〃 12日:江戸出立
◦ 〃 21日:尾張藩鳴海で水谷助六、伊藤圭介らと植物論議(シーボルトの並々ならぬ植物採集熱)
◦ 〃 26日:京都 所司代および東西奉行所で謁見
◦5月3日:大坂では妹背山を観劇、以降明石〜室〜備後〜鞆を経て下関から小倉へ、陸路で長崎街道を下り長崎へ
◦6月3日:長崎出島、正午帰着

という具合であり、シーボルトは幕末の日本をじっくり観察しています。また旅先で要請があれば人々を診療し、門人・医師・学者とも大いに語りあっていますから、シーボルトの江戸参府の旅は、阿蘭陀商館付き医官としての務めを存分に果たした旅だったと言えましょう。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2020年12月15日号TOP