京都医学史研究会 医学史コーナー 醫 の 歴 史 ― 医師と医学 その14 ―

⃝江戸時代初期の医療
 前号の1500 年代は中世から近世への移行期を述べました。織田信長(1534 ~ 1582)は本能寺の変に斃(たお)れ、豊臣秀吉(1536 ~ 1598)も伏見城で腎虚で病死した後、天下を掌中にしたのは徳川家康(1542 ~ 1616)でした。慶長8(1603)年、家康は征夷大将軍になり、幕藩体制による江戸幕府を開きます。

 日本の天下統一を果たしたのが家康なら、医学界の天下人(てんかびと)は曲直瀬道三(1507 ~ 1594)です。道三が出現するまで、奈良・平安・鎌倉・室町時代の古代・中世を通じて日本の医術は仏教医学の生命観と疾病観に強く支配されていました。十二因縁・三世輪廻(りんね)・因果応報といった教義のうち、疾病とは◦過去に起こした原因でそれが現世に結果となって現われたもの ◦現世で悪事や戒律を破った行為が生存中や来世に業(ごう)となって現われるもの と考えられていました。この疾病観は実証のない観念論ではありましたが、数百年の長きに渡って我が国の医療現場を覆(おお)っていました。古代から続く加持祈禱(かじきとう)病いや物(もの)の怪(け)を祓(はら)う呪術でしたし、中世鎌倉時代に起こった新仏教の臨済宗や曹洞宗の禅宗は、坐禅修道によって病をも治癒できると説きました。

 もともと仏教は人間が避けることの出来ない「生老病死」の煩悩(ぼんのう)を説く教えでもありますから、日本人の生命倫理に仏教観が深く刻まれているのも道理といえます。

 一方、中国では李東垣(りとうえん)(1180 ~ 1251)、朱丹渓(しゅたんけい)(1281 ~ 1358)による李朱医学が提唱されました。その百年後、明(みん)に12 年間留学した田代三喜(たしろさんき)(1465 ~ 1544(1537?))が、その学説を日本に持ち帰り(1498)、 下総(しもふさ)の古河(こが)に住みました。その三喜を訪ねて師事したのが、都から足利へ遊学中の曲直瀬道三でした。

 道三は大いに共鳴し、親試実験を基に察証弁治(さっしょうべんじ)の医療法をうち立てました。それは従来の「局方医学」に対し、李朱医学に基づいて病名・病因・症状・診断・治療・予後まで実践と実証に裏付けされたものでした。そして元亀2年(1571)には、その集大成ともいえる『察証弁治啓迪(けいてき)集』(通称:啓迪集)を著作しました。3年後の天正2年(1574)11 月17 日、この書は時の正親町(おおぎまち)天皇の御覧に浴し、名僧・策彦(さくげん)周良の題辞を付して献上されました。

 なお、この『啓迪集』は徳川3代将軍家光の時代に刊本になり(1649 年)、江戸初期の医学界に多大な影響を与えました。

 ところで田代三喜が持ち帰った李朱医学説は曲直瀬道三に受け継がれ、この学派は「李朱医方派(後世派(ごせいは))」と呼ばれました。後世派は道三以下、曲直瀬一族、施薬院全宗(やくいんぜんそう)、岡本玄冶(げんや)、秦宗巴(はたそうは)、堀杏庵(きょうあん)などで安土桃山時代から江戸時代前半、17世紀初頭までなおも栄えていました。そこへ登場するのが名古屋玄医(げんい)(1628 ~ 1696)で、後世派が唱えた中国・金・元時代の李朱医学を否定し、古代に遡って後漢時代の張仲景(ちょうちゅうけい)(142 ~ 210)の『傷寒論(しょうかんろん)』に拠(よ)るべきとの医説を提唱しました。後藤艮山(こんざん)(1659 ~ 1733)はこの医説をさらに発展させ、後世派に対して「古方派(こほうは)」と呼ばれています。以後、17 世紀後半から江戸時代の医術は、この古方派が主流を占めることになります。そして、両派いずれであろうとその近世の医学・医方が、古代中世以来の仏教医学と仏僧医の存在を衰退させることになってしまいました。

―続く―

(京都医学史研究会 葉山美知子)

2020年7月15日号TOP