2020年6月15日号
豊臣秀吉(1536 ~ 1598)は、京都東山阿弥陀ヶ峰山頂海抜190 mの豊国廟に祀られています。秀吉の生涯は、毀誉褒貶に富んだものでしたが、戦国武将としては織田信長や明智光秀のような凄惨な最期と異なり、畳の上で、それも豪勢な寝具にくるまれて息を引き取りましたので、まずはめでたい人生の幕引であったと思われます。
その幕引は、慶長3年(1598)3月15 日、一族郎党を引き連れた大がかりな、後世の語り草となる「醍醐の花見」に始まります。それは伏見東部に位置する醍醐山中の醍醐寺三宝院で催された観桜の宴でした。しかし、同時に海を越えた朝鮮で、この日も「慶長の役」後半戦のまっ最中、秀吉の有能な武将たち……加藤清正・小西行長・宇喜田秀家・島津義弘・毛利秀元たちが、関西以西から掻き集めた総勢14 万人もの兵士(多くは百姓)と共に飢えと厳寒に苦しんで戦っていたのです。
ともかく醍醐での花見が恙無く終わり、5月5 日の端午の節句を迎えます。伏見城では家康・前田利家など諸大名が登城して、父太閤秀吉が見守る6歳の愛息秀頼・従五位上(1593 ~ 1615)の健やかな成長を寿いで賑わいました。ところが状況一変、行事終了後、秀吉の身体に異変が起きます。侍医の施薬院全宗は、脈を診た限りでは大事に至るとは思えないが「六脉の躰、陽屈し水分乾き候へは御油断無く療治加へるべく然由申に付、京都より竹田法印、養安院等を召下され舗薬を進上す。六月二日より御腰立たず……」の病状に陥りました。秀吉は発病3日後の5月8日、有馬温泉に湯治に出かけていますが、その甲斐なく6月2日には歩行不能になっています。6月13 日「聊太閤御所御不快」、16 日は疫病を封じる「嘉祥の祝」日で16 個の餅菓子を食して疫病を吹きとばす行事ですが、秀吉にはその霊験もなく寿命が尽きたと嘆きます。17 日「昨日きなくさみにふしんはへ出候」、27 日「太閤御所御不例」という記述が続き、朝廷方も神社仏閣もこぞって秀吉の平癒を祈願しています。
8月4日秀吉は、唯一キリシタンで心を許すイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスに伏見城で謁見します。そのロドリゲスは「太閤様は分厚く重ねた絹枕に寄りかかって臥していたが、人間とも思えぬ枯れ枝の如く衰弱枯痩の極みであった」と述べています。翌5日には家康たち五奉行に秀頼の将来を託すべく起請文を提出させます。そして臨終の際まで秀頼の身を案じて、8月18 日丑刻・薨去、63 歳でした。
秀吉の死因に「腎虚」説があります。先述した侍医全宗の「六脉の躰云々」に続く見立てですが、漢方で「虚労」に拠る陽気の不足、五臓のうち腎気が衰弱する症で難治とされています。その症状は「痩せ衰え、顔色が青黒くなり、頻尿、盗汗、腰が痛く脚が痿弱し、横臥を好み、食欲不振」(『東醫寳鑑』許浚著、1613 年刊)で秀吉の症状に合致します。巷では秀吉の手当たり次第の過度の房事が「腎虚」の症状を招いたと伝えます。話としては興味を持ちますが、やはり生涯を天下統一にかけた積年の肉体的精神的重圧がもたらした「腎虚」だと推察しています。
(京都医学史研究会 葉山美知子)