2020年11月15日号
○江戸時代後期の医療(5)
〈本居宣長(もとおりのりなが)・晩年と最期(さいご)の病〉
宣長(1730〜1801)は、伊勢(三重県)松阪の人です。江戸時代中期後半に活躍しました。その生涯70年のうち、30代半ばで5年余り京都に遊学していますが、そのほとんどを松阪で過ごしました。
宣長の一族は、父方母方いずれも本居家・小津家双方が嗣子(しし)・養子・猶子(ゆうし)を交換しあい(実ハ〜ノ子)という( )付けの記述が多く、系譜は極めて複雑です。宣長は父・小津定利(小津家5代・実ハ道智ノ次男、4代の養子)と後妻・勝の長男ですが、宣長にも異父母の義兄宗五郎がいます。父・定利は伊勢木綿を扱う豪商で江戸に出店していましたが、宣長が11歳の時、江戸で急死します。母・勝は宣長に商人の道を歩ませるのですが、商売見習や商人の養子に入れてもどれも不首尾に終わります、そのうち跡取りの義兄宗五郎が江戸神田の店で死去、宣長は22歳で家督を継ぐことになります。大店(おおだな)で相応の遺産はありましたが、一生食いつなげる保障もなく、母・勝は宣長を商人の道ではない、いっそ医師の業で生業(なりわい)が立つよう進言し、京都に遊学させました。
宣長は大いに奮起し、宝暦2(1752)年3月に松阪を出立、京の綾小路室町で儒学と医学を堀元厚・堀景山・典薬の武川幸順に学びました。宝暦7(1757)年10月、5年半の京都での修業を経て松阪に戻り、すぐに医師開業となります。もちろん、宣長の後世に残る業績は京都修業中にめざめた古学・国学の分野で「古事記伝」「玉勝間」「玉くしげ」などの名著がありますが、宣長にとっての「医師」と「学者」の兼務は
家の業(なり) な怠(おこた)りそ 雅(みや)びをの
文(ふみ)は読むとも 歌は詠(よ)むとも
と述べていて、医は家業として怠らず日々の生計を支える重要な柱であり、その柱があってこそ己の思い定めた道を究められると語ります、この医師と学者の道は晩年まで並行して続けられ、ことに宣長没前の1年間(71歳〜72歳)の活動は目まぐるしく多忙でした。
寛政12(1800)年11月から翌13(1801)年(享和元年)9月、宣長死去までの1年足らずの活動歴
○寛政12年……◦7月に早々と遺言書作成
◦11月に松阪・山室山に墓所(奥墓(おくつき))を定める
◦11月20日、紀伊藩主の命で和歌山へ、当所で越年し、翌年3月1日に松阪へ戻る
○寛政13年(享和元年)……◦3月28日松阪出立して京都へ、堂上家・宮家に万葉集、源氏物語など講義し6月12日松阪へ帰る ◦8月16日「鈴屋新撰名目目録」未完だが最期の稿本作成 ◦9月13日月見の歌会「長き夜の一と夜を千夜になすらへて明くれば菊の露も消えにき」と詠う、宣長、今生最後の歌会 ◦9月16日、鈴屋で源氏物語の講義 ◦9月17日、風邪の兆候で鈴屋休講 ◦9月25日、門人に手紙を書く「執筆難渋、痰気強さし起り、食甚少、大いに弱り」と記す
◦9月26日〜悪化の一途で門人枕元につめる
◦9月28日、宣長病床から枕元の門人に挨拶
◦9月29日夜なか「眠り給ふ如く果はて給へり」
◦9月29日 享年72歳でした。
宣長は死去13日前に源氏物語の講義をしましたが、翌日の風邪罹患以降、老齢に加えて咳痰発作の持病があり一気に症状が悪化、肺炎を併発して死に至ったと思われます。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)