2020年10月15日号
◦江戸時代中期の医療(4)
〈将軍綱吉・最期(さいご)の病〉
時は元禄江戸時代(1688~1704)、江戸の町は大賑(にぎ)わい、文治政治のもとで文化・学問・芸術は活況を呈し、幕政は絶頂期を迎えます。
将軍は、「犬公方(いぬくぼう)」と称され、「生類憐(しょうるいあわれ)みの令(1687)」を発布した徳川綱吉(1646~1709)です。
綱吉は3代将軍家光(1604~1651)の4男、家光没後に4代将軍は嫡子家綱(1641~1680)がなります。ところが家綱は後継ぎが生まれないまま40歳で死去、家綱の弟、綱重(1644~1678)も家綱より2年前に35歳で没していました。そこで上野館林(こうずけたてばやし)藩主であった4男綱吉が江戸城に迎えいれられ、延宝8(1680)年8月5代将軍に就任しました。この時、綱吉35歳です。64歳で死去するまでほぼ30年の治世でした。その前半、上方・江戸の町は大いに発展しますが、後半は天下の悪法と酷評された生類憐みの令に振り回された感があります。どうも綱吉は生母(お玉(1627~1705)、家光側室、桂昌院)との結びつきが殊(こと)の外(ほか)強く、マザコン症状が見受けられます。この令も桂昌院主導のもと(陰で糸引く隆光(りゅうこう)僧正あり)、綱吉が強引に推し進めたものと思われ、綱吉の死去まで20年間実施されています。
さて綱吉が最期に罹(かか)った病は、死の1ヶ月前の「麻疹(ましん)」でした。麻疹は8世紀奈良時代には「赤斑瘡(あかもがさ)」と呼ばれ、死病の痘瘡(とうそう)(天然痘)に次いで怖(おそ)れられていました。この赤斑瘡がハシカ(麻疹)と称され始めたのは、室町時代半ば15世紀後半で「波志賀(はしか)」「ハシカ」の所労(しょろう)(病気)に罹ったと記載され、以後江戸時代を通じ現代に至っています。麻疹(はしか)は麻疹ウィルスによる伝染病で時代を越えて幾度も流行します。飛沫伝染した麻疹は約10日間の潜伏期を経て、発熱・咳・目の充血など風邪のような症状で始まり、口内に白斑が現われ赤い発疹が顔から全身に広がります((その小さな尖った発疹が稲・麦の穂先ののぎ=芒(はしか)と似ていることから芒(はしか)と呼ばれる説あり))。肺炎を併発して死に至ることがあり、決して悔れない病でした。江戸時代中期、宝永5(1708)年冬、この麻疹が江戸市中に流行り出し江戸城内に及びます。まず、甥(おい)の家宣(いえのぶ)(1662~1712、次の6代将軍)・47歳が12月8日に罹患した後、綱吉・63歳に感染します。以下、
◦12月26日:発熱頭痛で心地悪し、奥医師・曲直瀬正璆(せいきゅう)(1642~1726)たちは麻疹を疑う
◦年が明けて正月:発疹現われ、麻疹の診断
◦1月7日:発疹薄れ、医師団一安心するが、喉(のど)の炎症で食物がのどにつかえ、食事出来ず
◦1月8日:咳嗽(がいそう)(せき)止まらず胸内苦悶の様相、ここにきて侍医団の緊張が高まり、人参湯の服用を促すが綱吉拒否
◦1月9日:回復の兆しを祈念して「酒湯の儀」を行うが霊験なし
◦1月10日:早朝卯刻5時頃と8時頃の2回お粥少々を口にして程なく「俄(にわ)かに御痞指(ひさ)し出でられ」て死に至る
と記されています。痞(ひ)は胸がつかえ、又は癪(しゃく)(差し込み)で胸が塞(ふさ)がることで、綱吉は突然のどを詰まらせ、急遽(きゅうきょ)奥医師たちが城に駆けつけた時には脈がありませんでした。
思えば12月暮れに発病してわずか10日余りで命脈が尽きました。元来、丈夫な質(たち)の綱吉でしたが、64歳高齢での麻疹(はしか)は肺炎を併発し(多分)、まさに命取りの病いだったことになります。
(京都医学史研究会 葉山美知子)