2020年9月1日号
中京西部医師会 京都民医連太子道診療所 蝶勢 弘行
「愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという,そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら,苦しむために『井戸掘り』をするためなんだ,というのがぼくの結論なのです」 今は亡き河合隼雄先生の言葉。
私はこの「井戸掘り」というメタファーが大好きです。夫婦生活というものは上に構築するものではなく,下に掘り進めるものだという一種の諦念。掘り進めた下には「お互いの汚物」が埋もれているかもしれない。しかし,もしそれをお互いに認め合うことができたとしたら,その夫婦は「砂上の楼閣」を免れるというわけです。ついでに言うならば,「昼の光に,夜の闇の深さがわかるものか」というニーチェの言葉を連想してしまいます。
「知性あるところ,夫婦のつながりは,むしろ苦痛が多く,平和は少いものである。然し,かゝる苦痛こそ,まことの人生なのである。苦痛をさけるべきではなく,むしろ,苦痛のより大いなる,より鋭くより深いものを求める方が正しい。夫婦は愛し合ふとともに憎み合ふのが当然であり,かゝる憎しみを怖れてはならぬ。正しく憎み合ふがよく,鋭く対立するがよい」 坂口安吾の言葉(悪妻論より)。
ここで言う「知性」とは「自我」に置き換えていいと思います。安吾はまっすぐに正論を述べている。要するに「誤魔化しはよくない」ということ。小さな嘘の積み重ねで,夫婦関係が破綻することもあるだろう。ただ実際には「うそも方便」というような場合もあるかと思う。
常に諍いと隣り合わせの夫婦生活において「緩衝材」としての嘘は,必要悪だろうと思います。安吾の言葉は,極めて率直な理想論なんだと思う。
ふたつの文章に共通するのは,コミットメントを忘れないということ。相手に深く関われば関わるほど,その人の「ダメな部分」は見えてくる。そして待ち受ける,幻滅,怒り,憎しみ。その時に遠慮,軽蔑,無関心が支配すると,夫婦関係は深まらない。勇気をだして,大切な人にコミットしていくこと。もし「弱さを認めつつ,本音でぶつかり合う」ことができたら,その絆は一段と深みを増すだろう。いわば「井戸の底で共鳴する」ように。
最後に。夫婦関係,あるいは家族関係というカオス。これはいったい,荒野なのかお花畑なのか?距離が近いがゆえの軋轢,すれ違い。家庭生活という本来しあわせな関係性の背後に「冷ややかな棘」を感じるとき。個人的なことを申しますと,こうした時,私は独りになって瞑想をする。そうして頭を冷やして心の整理をしてから,ようようコミットを始める。そう,コミットメントがなければ,人間関係はなにも始まらない。もし「棘」を感じたとしても,「話せば分かる」ことかもしれない。我々は悪しき幻影に負けてはいけない。関わっていくプロセスの中で荒野に花を咲かせられたら,どんなに良いことでしょう。右手に忍耐を,左手に寛容さを携えて,幻影に一撃を喰らわす。そうして世界中の家庭に花が,平凡でも凜とした花が咲くことを夢見る次第です。