京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その16 ―

○江戸時代初期の医療(3)
 〈角倉了以・最期の病〉
 この京の都に大仏様(と大仏殿)があったことを御存知ですか。「東山の大仏様」「方広寺の大仏様」「京の大仏っあん」と呼ばれて、昭和48(1973)年3月まで親しまれていました。

 元々の創建者は豊臣秀吉(1536〜1598)でなにしろ巨大でした、大仏殿に座像で丈長63尺(約19m)の木像金箔張りの盧舎那仏(るしゃなぶつ)(大仏)です。しかし、この大仏は慶長元(1596)年、閏7月の地震で崩壊、以後、江戸時代に何度か再興されました。昭和48年に焼亡した大仏は6代目の大仏で江戸・天保14(1843)年に尾張の篤志家が造立したものでした。

 さて本題です。秀吉造立の大仏は地震で崩壊、再興は秀吉の遺児秀頼(1593〜1615)によってなされます。慶長14(1609)年計画〜17(1612)年大仏完成〜19(1614)年梵鐘が完成します。この大仏造立には莫大な費用がかかる(金貨大判2万枚以上)こともさりながら、巨石・巨木・鉱石など超重量級の資材調達が必須です。その運搬は大坂から淀川を遡上し鳥羽までは船輸送ですが、あとは陸に上って現地の東山まで途方もなく人馬牛を動員した人海戦術でした。

 しかし、秀頼の再興にあたっては嵯峨の豪商・角倉了以が鳥羽から東山の輸送を徒歩ではなく、鴨川を船で遡上させることを考案したのです。すでに了以は丹波〜保津川開疏(かいそ)(1606・3月〜8月)や駿河富士川を開鑿(かいさく)(1607、春)して水運をもたらした実績がありましたから手順に迷いはなかったものの、やはり東山大仏関連の資材輸送ですから、慶長15(1610)年9月の大仏造立開始から締めくくりとなる梵鐘(ぼんしょう)製造が完成した慶長19(1614)年4月までの4年ほどは、了以はそれらの運搬にかなりの緊張を強いられていたと思われます。また角倉家は朱印船貿易に携(たずさわ)っていましたが、慶長14年6月、安南(ベトナム)交易の帰途で現地出港直後に海難事故が起こり13名が犠牲になりました。このような内憂外患の日々に了以は心身に変調をきたします。そして慶長19(1614)年、7年前開鑿(かいさく)に成功した富士川の一部が埋まり「富士河壅瞼(ようけん)、舟不能行、釣命(きんめい)召了(◯)以(◯)、有(◯)病(◯)(◯は筆者)玄之代行治水」という事態になってしまいます。幕府から了以へ再度の富士川運漕改善のお達しでした。しかし、了以は病のため、息子の玄之(素庵)が代行して3月に開始、7月に完了しましたが、その報を待たず7月12日に了以は京嵯峨で死去、61歳でした。病名は不明です。実は年代は特定できませんが、某年8月18日に了以は医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)(1549〜1631)に診察を受けています。両家は家族ぐるみ旧知の間柄でもあり、玄朔の診療記録『医学天正記』に了以の名があります。「鬱(うつ)」の部門「了以 気(き)鬱(うつ)腹脹(ふくれ)二便渋脈(みゃく)遅(ち)濇(しょく)ナリ」という主症状に咳喘(がいぜん)、喘息(ぜんそく)が甚(はなはだ)しく不能(あたわず)臥(ふ)スコトを加えています。この『天正記』は「慶長12(1607)年早春」の著で、年月が記載されている最初の症例は「天正3(1575)年夏」ですから、了以はその間の受診になります。

 了以は京の豪商でありながら江戸幕府の政商でしたから、あくまで「公」の利を優先する責務を負いますが、それ以上に了以の生涯は禁欲的でしたし、清冽な香りさえします。しかし、生身の人間ゆえに「公」の利に徹した覚悟が時として不足であったり報われなかったりすると、心身に「鬱」を招き、眠れない夜を過ごすこともあったであろうと思うのです。

(京都医学史研究会 葉山美知子)

2020年9月15日号TOP