2021年8月15日号
○江戸幕末の医療(14)
楠本イネ シーボルトの娘 その2
父シーボルト(1796~1866)と母楠本タキ(1807~1869)の娘イネ(1827.5.31(文政10年5月6日))は、生まれながらに「みんなと違う」宿命を背負わされた。まずは出生場所からして長崎出島の中心に位置する病人部屋(治療・手術室)と思われる。そしてシーボルトが日本を退去する1829年暮れまで出島の東側「悉以勃兒都(シイボルト)部屋」にタキと親子3人で過ごしている(前号既述)。
しかし、イネは3歳足らずして父の国外追放により残された母と2人で暮らしていくことになる。しばらくは父の高弟・高良斎と二宮敬作の庇護のもと、シーボルトが置いていった財産でその生活は賄(まかな)えた。その後、母娘は出島を出て、母タキの実家・長崎市街地の銅座町(どうざまち)、楠本左平(タキの父)宅に身を寄せた。ところが左平は時を置かず亡くなる(生存説あり)。母子は居場所を失い、母の叔父宅に厄介になるが、1831年正月、母タキは子連れで鼈甲(べっこう)職人和三郎(1808~1839)と再婚する。その和三郎も1839年に病死してしまい、またもや母子2人は母の叔父宅に出戻ることになる。イネは13歳になっていた。思い返せばイネの幼少時代の男親役は、実父シーボルトに始まり、祖父左平、継父和三郎、大叔父、時に父の高弟たちと目まぐるしい、つくづくイネは男親運に見離されていたものと思われる。
幕末の出島と長崎市街地には、イネと同様の異国人(蘭人・唐人)を父に持つ子は少なからず存在し、その生活光景は他の日本の地では見られず、特殊文化を形成していた。現にタキの姉つね(阿蘭陀行き遊女)は、シーボルトの盟友ビュルガー(1806~1858)の日本人妻で、つねの子アサキチはイネの従兄弟(いとこ)にあたる。幼いアサキチとイネが出島で遊ぶ様子をビュルガーが書き残している。
ところで、イネは紅毛碧眼(へきがん)の混血児で出島内でも長崎の街でも一目瞭然の風貌であった。しかも当時の父シーボルトは誰もが知る超著名な若き学者であり、西洋式医師であり、1826年にはオランダ領事館の江戸参府で領事館長スチュルレル付医師として同行、11代将軍徳川家斉(いえなり)に拝謁(はいえつ)している。このような父を持ったイネであるから、物心(ものごころ)が付く頃には「普通の女の子」になれないことを悟り、それであれば父の家業・医師を継ぎ、天下立身出世をするという熱い情熱が芽生え、日々学業・読書に励んだ。イネの周辺には父の高弟や門人、日本各地の俊才が鳴滝塾に集(つど)い、環境は申し分がなかった。
●1845(弘化2)年2月 イネ19歳 ついに羽ばたく。長崎を出立、行く先は愛媛伊予国卯之町(うのまち)で開業している蘭方医二宮敬作(1804~1862)のもとで半年近く医術業の手ほどきを受け、本格的医師修業を始める。
●同年7月 イネは敬作の勧めで岡山に向かい、産科医でシーボルト門人の石井宗謙(1796~1861)邸で医者見習い奉公
●1851(嘉永4)年9月 イネ25歳 6年半に渡る見習い奉公を打ち切る
●同年10月 イネ宗謙邸退去、長崎に戻る
●1852(嘉永5)年2月 イネ26歳 高子出産(父親は石井宗謙)
以下次号に続く
お詫び:前月号でシーボルトの没年を間違えました。
正しくは(1796~1866)です。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)