2021年2月15日号
〈幕末のオールコック〉
幕末の日本にやって来た外国人の一人にオールコック(1809〜1897・Sir. Rutherford Alcock, K. C. B)がいます。オールコックは英国人で前号のシーボルト同様、彼の父も医師で、彼自身は英国で医学教育を受け、1830年に王立外科学校から外科医師の免許を得ています。1832年から4年間、スペインの内乱で医療活動に従事しましたが、リューマチにかかり手指の自由を奪われたことで外科医を諦め、外交官に職を転じた経緯があります。彼は清(中国)に赴任、外交手腕を発揮し極東通として認められ、1858年に日英修好通商条約が締結されると、その初代英国駐日総領事(のちに公使)に任命されます。翌(1859)年6月に来日、江戸品川宿に近い東禅寺に領事館(のちに公使館、Legation)を開き任務に就きます。その在任期間(1859.6〜1862.2)2年8ヶ月の記録が『CAPITAL OF THE TYCOON……A NARRATIVE OF A THREE YEARS’ RESIDENCE IN JAPAN.』(1863年刊「大君の都……幕末日本滞在記」)です。T YCOON(大君) とは徳川幕府征夷大将軍を指し、時の将軍は14代家茂(いえもち)(1846〜1866)でした。
それにつけてもオールコックの在任期間は、日本各地で攘夷旋風が吹き荒れ幕府の権威は失墜し弱体化していました。それらのうちのいくつかとは ⃝安政の大獄(1859〜1860) ⃝桜田門外の変(1860) ⃝東禅寺事件(1861) ⃝公武合体の断行(1861) ⃝坂下門外の変(1862) などです。中でもオールコックが直に遭遇した事件といえば東禅寺事件でしょう。この事件は前述の著書に詳細が記されています。彼の日本での赴任生活が2年過ぎた頃、公務で香港に出張、帰途は船便で長崎出島に着港、そこからは(文久元年(1861)4月23日)陸路(瀬戸内海は船便)で江戸をめざしました。32日目(5月25日)にまずは神奈川の英国領事館に上陸し、5月27日に東禅寺の公使館に帰着しています。事件はその翌日28日に起きました。夜半、長旅の疲れで寝入った11時頃、突如「館内に賊が押し入り乱闘になっている」と叫び声があがります。「賊」とは水戸藩の攘夷派浪士14名で、香港から館邸に戻った英国公使、即ちオールコックと全公使館員を殺害しようと襲撃に及んだのです。
事態の急を察した彼は、化粧台に常置している連発ピストルを手に室外に出ようとするや、血まみれの館員2名が逃げ込んできて惨状が明らかになります。館員と浪士双方に死者4名、重傷者8名、軽傷者11名の殺傷事件でしたが、浪士一味は暗殺すべきオールコック公使を見つけ出すことが出来ず、館邸襲撃計画は中途半端な未遂に終わりました。
このように明治維新(1868年)を迎えるまでの幕末は、攘夷派・開国派双方で流血事件が世の中を騒がせていましたが、もはや世界の趨勢(すうせい)は開国と通商にありました。ついに慶応3年(1867)、15代徳川慶喜(よしのぶ)征夷大将軍は朝廷に政権を返上(大政奉還)し、江戸幕府は滅亡します。
顧(かえり)みれば、260年余りの長い徳川封建時代を終結させ近代国家へと導いたのは、命を賭(と)して暗躍した開国派日本人志士とその支持者たちだと思いがちですが、海外(特に西欧米)からやって来て開国や通商を迫った外国人たちの強い使命感も、その一端を担ったといえないでしょうか。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)