京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その39 ―

○近代明治期の医療
 野口英世 その6
 英世異聞
 野口英世は明治9(1876)年11月9日、福島県猪苗代村生まれ、昭和3(1928)年5月21日、西アフリカ現ガーナ共和国アクラで研究中の黄熱病(Yellow Fever)に感染して死去した。満51歳6ヶ月の人生であった。英世は、まさに近代の生まれであるが、明治33(1900)年12月22日に渡米したのでアメリカで20世紀の幕明けを迎えたことになる。
 日本での暮らしは貧しさに加えて「手ん棒」とさげすまれ屈辱感にさいなまれていたが、母シカ(1853~1918)の溺愛と英世を支援する大人や仲間の存在もあった。16歳(1892)になり、篤志家の厚情で「手ん棒」の左手を手術する。棒状の手は多少なりとも、「結んで開いて」の機能が回復したのである。英世は医術・医学の有難さを身をもって体験し、医者になる決意をする。その医学の道は本人の頭脳の明晰(めいせき)さと集中力・思考力の上に努力を積んで明治30(1897)年10月、英世21歳で医術開業後期試験を突破し、医師免許を手にしたことで成就した。
 しかし、英世は諸状況(パッとしない学歴、借金癖(へき)、身体的見栄(みば)えの悪さ)を推察するに医師としての前途はこの日本においては明かるくないと判断した。折りも折り、アメリカの医師フレキスナー博士が明治32(1899)年4月に来日した。博士の通訳を任されたことで、英世は自身の一途(いちず)な思い込みを一気に行動に移した。即ち、「何かあれば口添えするよ」の博士の社交辞令にすがってアメリカ行を敢行、1900年12月29日、英世23歳フィラデルフィアに到着。
 ここからアメリカの話になる。1年経たずして英世は心強い支援者が出現する、星(ほし) 一(はじめ)(1873~1951)である。1901年10月、星の手廻しで英世は外遊中の前総理大臣・伊藤博文(1841~1909)と滞在先のフィラデルフィアで歓談した。星は1894年に渡米し、コロンビア大学で経済学・統計学を専攻し、1905年帰国後は手広く起業して製薬業で大いに成功を収め、星薬科大学を創立した。星と英世は1年そこそこの交友だが、同郷の誼(よしみ)でかつ星は右目失明、英世は左手不自由という不便さもわかりあい、親しく行き来した仲であった。英世が大正4(1915)年9月、一度だけ郷里に帰国したが、やはり金銭の手持ちなく、星に「ハハニアヒタシ カネオクレ」と金無心(かねむしん)の電報を打った、星は直(ただ)ちに1千万円ほど送金している。また時は過ぎて大正11(1922)年、星は第一次世界大戦(1914~1918)後の敗戦国ドイツの情勢を視察の帰途、今や「世界の野口」「細菌学の野口」「ノーベル賞授賞近し」と騒がれるまでになった英世をニューヨークに訪ねる。英世は星の長きにわたる厚情(多額の金銭送金)を感謝し、星の願いを叶えようと尋ねる。星は「発明王エジソン(1847~1931)に会ってみたい」と応(こた)えた。さっそく英世は人脈を駆使(くし)して連絡を取る。ニューヨークから車で30分程、ニュージャージー州のウエストオレンジにあるエジソンの豪邸グレンモントに向かった。面会時間15分厳守のはずが、難聴のエジソン(75歳)と英世(46歳)と星(49歳)3人は1時間を越えて各々の話を愉しんだ。英世は孤独を好んだというが、やはり愉しいひとときを大事にしている。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2022年8月15日号TOP