2022年12月15日号
⃝近代明治期の医療
野口英世 その11
英世の渡米
英世(1876 ~ 1928)は 1900 年(明治 33)に渡米した。まず 12 月5日、汽車で新橋駅を出発、横浜駅(現桜木町駅)下車、そばの横浜港棧橋からサンフランシスコ港行きの太平洋航路便「亜米利加丸」(あめりかまる)に乗船、出帆して18日目の12月22日早朝到着。中一日おいて 24 日に大陸西端サンフランシスコ駅から大陸横断鉄道で東端のフィラデルフィア(以後Phila)駅まで5日間、1900 年12 月29 日早朝着。めざすはフレキスナー(Simon Flexner 1863 ~ 1946)博士、博士は去年(1899)4月フィリピンの米国軍隊の健康状態を視察し、日本の立ち寄り伝染病研究所も見学した。その時の通訳が英世であった、英世は独学でマスターしていた。千載一遇のチャンスとばかり博士に渡米を熱望していると自分を売りこんだ。
それから1年8ヶ月後、受け入れ可否の返事を待たず、Phila の博士の勤務先「ペンシルベニア大学医学部」(Perelman School of Medicine at the University of Pennsylvania 以後Penn)を訪れた。博士 (37才) は独身で寄宿舎住まい、ドアを開けると髪がうねった見覚えのない小男(5尺 152cm)が立っていた。会津なまりの聞きとれない意味不明の英語で懸命に訴えている……彼が「あの時の日本人通訳者」と理解するまで一苦労であった。なにせ英世は着替えを入れた革鞄(かわかばん)を手に持ち、所持金20 ドル(1ヵ月半の生活費)で博士に自分の未来を託して、はるばる海を越えてやってきたのである。とりあえず泊めたが、年が明けて1901 年1月1日、博士は途方にくれつつも勤務先のPenn においそれと就職口が見つかるはずもなく、仕方なしに自分の懐(ふところ)から月8ドルの私用助手に雇い「蛇毒」の研究テーマを与えることにした。毒蛇を扱う危険極まりない研究作業だが、英世は死を賭(と)して成果を出すしかなかった。結果は10 ヶ月後、11 月(1901年)の国立アカデミーの会合で博士の上司、アカデミー会員のミッチェル医学博士の名のもとに発表し英世は実験助手を務め、好評裏(こうひようり)に終了した。
この発表以降、英世は次々に論文を提出し、翌1902 年10 月にPenn の病理学助手に採用されたのである。その際に提出した履歴書の学歴には「1894 年 (18才) :東京医科大学入学 1897 年 (21才) :卒業 医学博士」と英世の字で記載しているが詐称も甚(はなはだ)だしい。実のところ英世は 1893 年 (17才) ~ 1896 年 ( 20才 ) :会津の「会陽医院入門勉学、96 年10 月:医術開業試験前期合格のち医術予備校「済生学舎」3ヶ月近く在籍、1897 年10 月:後期試験合格(21才 )、医師免許取得 の経歴である。会陽医院は住み込みの門番をしながら書生として勤務した。また済生学舎は後期試験合格のための私塾であり、到底大学とは言えない。いずれにせよ「医科大学」「医学博士」には英世の学歴コンプレックスが埋(う)もれている。しかし、フレキスナー博士は終生、英世を大学を卒業した医学博士であると信じて「ドクトル野口」と呼び続けた。
ともあれ運が向いてPenn の助手に任命された英世であったが、この1902 年は博士にも強力な要請を乞う話が持ちこまれた。NY の大富豪ロックフェラーから医学研究所設立の案件であった。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)