2022年2月1日号
西京医師会 武田 信巳
小生は1992年春,院長をされていた大恩師・故森英吾先生のご尽力で京都市立病院に帰任させていただいた前は静岡県立総合病院に約8年間在職し当地の妻を娶ったこともあり駿河の国には少なからず詳しいと自負している。そこで新型コロナ感染症の早期の収束を願い目出度い末広がりにて次第に栄えていく八の形の霊峰富士について僅か触れてみたい。2013年6月にユネスコの世界文化遺産に登録された「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」を後世に守り伝えていくための拠点施設「静岡県富士山世界遺産センターMt Fuji World Heritage Centre」(Shizuoka(シゾーカ))が富士宮市に2015年12月23日に開館した。ここは富士山の保護・保存・整備および学術調査機能を併せもつ博物館で新しい観光の目玉でもある。建物本体は逆さ富士の形にてそれが富士山麓の湧水を引いた水盤に映ると県産檜格子の正富士山となる坂茂(ばんしげる)設計の外観は素晴しい。内部は富士登山が疑似体験できて1.登拝する山,2.荒ぶる山,3.聖なる山,4.美しい山,5.育む山,6.受け継ぐ山とらせんスロープを登りつめて最上階に着くと本物のMt Fujiが眺望可能となる仕掛けである(写真1)。家族総勢9名にて全く平和な2018年の晩夏に訪れた同センターではお目当ての「富士山絵画の正統展」の図録「富士山図 定型の生成との変奏」を参考にして,早春富士山2作品を紹介したいと思う。1つ目は江戸時代に活躍した絵師集団円山派の祖・円山応挙の若描きつまり30才頃,主水(もんど)時代の掛軸である。画号・応挙とは中国宋末元初の画家・銭舜挙(せんしゅんきょ)に応ずるとの意であるが若作時は他に夏雲・一嘯・仙嶺などと名乗っていた。遅くとも10才後半には都に出て狩野探幽の流れを引く鶴沢派・石田幽汀(ゆうてい)の門に入りその後の修行期には尾張屋中島勘兵衛と言う玩具商に勤めていてオランダ渡りの眼鏡絵(めがねえ)の作製に携わっている。その際,西洋画の遠近法や写生(しゃせい)(実物・実景を見てありのままに写し取ること)や付立(つけた)て(輪郭線を用いない画法)等を学んで独自にそれらを発展させ江戸時代中期から後期最高のイノベーター絵師と成ったと小生は考えている。本図の遠景には満る雲の中に顔だけ出す富士を置き裾野には淡彩で山桜と1本の松が瀟洒に描かれおり江戸狩野の祖である探幽をも彷彿とされるが稜線や海景は省き屹立する富士を優しく強調し明るく親しみやすい画風の端緒が観えるようだ(写真2)。2つ目は雄大な富士と三保の松原および清見寺を含む駿河湾の海沿いの風景が描かれた六曲一双の屏風である。そもそも屏風とは風除けの道具であるが基本的な構造は短形の木枠の骨格に用紙・用布を貼ったものでこの細長いパネルを一扇と言い向かって右から第1扇・第2扇と数える。これを接続したものが屏風の一単位つまり一隻で対面して右側の屏風を右隻,左側を左隻と呼ぶ。さて作者不詳の6曲1双屏風の全容は紙面の関係で挙げられないが左隻つまり西方,現在の静岡市清水区の折戸湾から俯瞰するとまず,穏やかな波を受けて半島の湾入には大きな帆を掛けた入船がまた東方には出船が見受けられ,砂嘴ではそれ迎える人達がいる。連続する濃緑の三保松原の沖には乗り合い船が,また砂洲との間には侍達の行列が行く。その第1扇・後景には清見寺とおぼしき塔と楼閣が満開の桜に囲まれて華やかである(写真3)。右隻第6扇には薩埵峠から御殿山にかけての里山は葉桜が綺麗で駿河湾に面する千本松原のあたりの陸地に近い静寂な漁場にて漁をする小船も散見される。何より右隻5・4・3扇を占める富士の描写は誠に見事で例年,最も積雪が多い3月末と思われる早朝の頂(いただき)には潤沢な白雪を湛えている。さらに広大かつ豊かな金雲に隠された霊峰に現れた裾野の縦縞雪模様は爽やかで厳しい冬を越した早春を予見させ国内外ともに類を見ない「全方位からの奇跡の円錐美」をより強調しているようだ(写真4)。
写真1 富士山本宮浅間大社の鳥居を従えた静岡県富士山世界遺産センター
写真2 稜線や海景を省き満る雲の中に顔だけ出し屹立する富士の前景には淡彩で山桜と1本の松が瀟洒に描かれている。
写真3 左隻第1扇には清見寺とおぼしき塔と楼閣が満開の桜に囲まれて華やかである。
写真4 右隻5・4・3扇を占める富士の描写は全方位からの奇跡の円錐美をより強調しているようだ。