京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その33 ―

○近代明治期の医療(3)
 森鷗外の死 その2
 大正11(1922)年7月9日午前7時、鷗外は永眠した、60歳であった。
 死因は萎縮腎(いしゅくじん)と公表されたが、それもあるが実は「肺結核」であったと言われる。
 鷗外の生涯は35年間の軍人それも陸軍軍医生活であったが、大正5(1916)年4月に54歳で退官した後は、翌6年12月に東京上野の帝室博物館館長に任ぜられ、死去する大正11(1922)年6月までの官吏(かんり)生活を完うした。
 その間の4年半は必ずしも健康状態は万全と言えず、●大正7年12月病臥 ●9年2月腎臓炎 ●10年11月下肢に浮腫 の有様であった。翌11(1922)年4月英国皇太子エドワードが来日、正倉院御物の観覧のため鷗外も奈良へ随行したが、体調がすぐれないままに奈良博物館官舎で臥せる。東京に戻った後、博物館(上野)に向かう鷗外の足取りは「ノロノロと這(は)うように右の脚を引きずり、次に左の脚を引きずって前に出す」という具合であったが6月15日から欠勤が続く。それまでいずれの医療も拒んできた鷗外であったが、6月29日初めて額田晉(ぬかだすすむ)の診察を受けた。それは額田の妻が、鷗外唯一の親友で大学同級の賀古鶴所(かこつるど)の姪であったことによる。
 額田の診断は萎縮腎(いしゅくじん)と肺結核、それも深刻な状態という。7月6日、鷗外は死期を悟り賀古に遺言を口述した。7日に天皇・皇后両陛下から葡萄酒を下賜、8日は皇太子から見舞品が届いた。そして翌9日死去した。賀古に託した遺言は前書きの後に
 「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力(かんけんいりょく)ト雖(いえど)此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス―中略―墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ倭託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請―以下略―」であった。
 死因の肺結核は伏せられたが、遡ってみれば ●明治13(1880)年18歳、東京帝国大学在学中に「胸膜炎」(肋膜炎)発症 ●明治40(1907)年7月18日45歳「胸膜炎再発の徴あり、増悪するに至りざりき」という記述は見逃せない。
 さて、臨終の際の着袴姿(ちゃっこすがた)であるが、何故に袴を着(つ)けて死に臨んだのであろうか。その姿は小説随筆家小島政二郎(1894~1994)によると「袴が帯で一段高くなっているところを右手で袴ごとグッと握って首を少しかしげたままのいつもの見馴れた姿勢」であったという。また死去の2日前に見舞に訪れた永井荷風(1879~1959)は「森先生は袴をはき腰のあたりをしかと両手に支へ掻巻(かいまき)を裾の方にのみ掛け、正しく仰臥し、身動もしたまはず、半口を開いて雷の如き鼾(いびき)を漏したまふなり」と伝えている。鷗外の遺骨は墨田川沿い向島(むこうじま)の弘福寺から昭和2(1927)年、三鷹禅林寺に移され、墓碑は鷗外の遺言により著名な書家・中村不折(1866~1943)が「森林太郎墓」5文字のみを書(しょ)した。
 さてさて、鷗外は今際(いまわ)の際(きわ)で「我が人生に悔いなし」と判定出来たであろうか。死に臨んで袴を着け威儀を正して、ただひたすらその時を待ち受けていた。そして7月8日、宮中から待望の勅使が訪れた。勅命により「従二位(じゅにい)」が授与されたのである。しかし、鷗外が望むものは位階ではなかった。鷗外が熱望したものは唯一(ただひと)つ「男爵」であったのだが、今この死の床で受爵の意義さえ虚しく馬鹿馬鹿しいことだと鷗外は悟ったのではないかと思われる。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2022年2月15日号TOP