京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その32 ―

○近代明治期の医療(2)
 森鷗外の死 その1
 明治期(1868年~1912年)の国民病と言えば肺病(その80%は肺結核)と脚気(かっけ)であった。現に鷗外も肺結核で死んでいる。
 鷗外が死に臨んで袴を着けていたことはよく知られているが、やはり不思議な様(さま)である。そもそも鷗外は文人としても軍医としても頂上を極めた人物であろう。文学博士かつ医学博士であり、勲一等も授与されている。しかし、鷗外の東京帝国大学出身の医師や陸海軍の医務局長クラスの軍人たちは、ほぼ爵位(男爵が多い)を授与されているが鷗外には未(いま)だその沙汰はきていないのであった。
 鷗外はつらつら己(おのれ)の来(こ)し方を振り返る。
 ○5歳(1867(以下西暦年号))にして論語を学ぶ。 ○10歳(1872) 生まれ故郷津和野を離れ一家で東京へ、鷗外は進文学社に通いドイツ語を学ぶ。 ○12歳(1874) 年齢を2歳かさ増しして東京医学校予科入学 ○19歳(1881) 7月東京帝国大学医学部卒業(同級28名中8番の成績) 12月東京陸軍病院官員になり、軍人生活の始まり ○22歳(1884) 6月ドイツ留学の命を受け、10月ライプチッヒ大学へ ○25歳(1887) ドレスデン、ミュンヘンを経てベルリン大学のコッホ教授の衛生試験所に所属 ○26歳(1888) プロシャ近衛軍団歩兵隊の隊付医官として入隊、7月帰国の途につき9月8日横浜帰着。陸軍医学校の教官になる。9月12日ドイツに残した恋人エリーゼ・ヴィーゲルト(Elise Wiegert)が後追い来日、築地精養軒に宿泊するが、鷗外の親戚一同エリーゼをなだめすかして10月17日ドイツに帰ってもらった。 ○27歳(1889) 3月西周(にしあまね)の媒酌で海軍中将男爵赤松則良の長女登志子(としこ)と結婚 ○28歳(1890) 長男於菟(おと)誕生、10月登志子と離婚 東京本郷駒込千駄木21番地に転居、なお現在この跡地に文京区立「森鷗外記念館」が建てられている。 ○29歳(1891) 医学博士 ○31歳(1893) 陸軍軍医学校長就任 ○32歳(1894) 日進戦争始まる、兵站(へいたん)軍医部長として韓国・中国・台湾を転戦 ○36歳(1898) 近衛師団軍医部長と軍医学校長兼任 ○37歳(1899) 小倉第12師団軍医部長となり九州小倉へ ○40歳(1902) 判事荒木博臣長女志(し)げ(22歳)と再婚、志げは超美人で鷗外も「美術品ラシキ妻」と評し、大いに満足、気にいる ○42歳(1904) 日露戦争始まる、軍医として中国奉天に出征 ○45歳(1907) 陸軍軍医総監拝命 ○47歳(1909) 文学博士 ○54歳(1916) 総監を退官、35年間の軍人生活に終止符 ○55歳(1917) 帝室博物館総長拝命 ○56歳(1918) 正倉院曝涼(ばくりょう)のため奈良へ赴く、暮れに病臥 ○57歳(1919) 帝国美術院初代院長 ○58歳(1920) 1月腎臓炎患(わずら)う ○59歳(1921) 11月下肢に浮腫 ○60歳(1922) 4月奈良に出張するが病臥 6月肺結核の進行と萎縮腎で15日から欠勤、29日に医師額田晉(ぬかたすすむ)の診察を受ける 7月6日唯一の親友賀古鶴所(かこつるど)に遺言口述 7日天皇から葡萄酒(ぶどうしゅ)下賜 8日従2位叙される ○7月9日午前7時 死去
 鷗外は60年の生涯で重大な人命に関わる事態をひき起こした、「脚気」についてである。この20世紀初頭までビタミンの存在は知られていなかったのでドイツ医学信奉者の鷗外が頑固に主張する「脚気菌原因説」とイギリスで学んだ高木兼寛が実証を踏まえて到達した「脚気栄養障害説」を巡る脚気論争が起きたのである。

(続く)

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2022年1月15日号TOP