京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その37 ―

○近大明治期の医療
 野口英世 その4
 英世の黄熱病とその最期
 野口英世(1876~1928)は女に好かれない、どケチで自分第一主義の男であるから好かれるはずがない。また身長152cmという小男であったから肉体的コンプレックスが強かった(筆者も超小柄であるから他人事ではない)、英世自ら小男と名乗り、風采(ふうさい)が上がらぬと自認している。さらに生家、福島猪苗代町の野口家は極貧であった。家の入口に筵(むしろ)をぶら下げ、屋内に畳はなく筵が置かれていた。しかし、これらの負の環境を覆(くつがえ)す気迫と気概を英世は持っていた。小学校・高等小学校を主席で通し、以降、英世の非凡な能力を認める町の篤志家によって医学の道に進めたのである。とりわけ高等小学校の恩師小林栄(さかえ)(1860~1940)、わずか7歳年長の歯科医血脇守之助(1870~1947)は生涯物心両面の援助を続けた。それと渡米の切っ掛けとなったペンシルヴァニア大学医学部教授(後にロックフェラー医学研究所・所長)のフレキスナー博士(Simon Flexner 1863~1946)の3人は生涯の恩人であり、彼らの存在なくして英世の栄達は有り得ないのである。
 英世は日本では認められなかった、というより遠ざけられていた。まず第一印象・見栄(みば)えが悪い、第二印象・人品骨柄も良くない、知りあったら即(そく)金銭を無心かつ返却の意志なく借り倒す。ところがその酷評、悪行を呑み込む度量を持った人々は何故か英世をあるがままに受け取め、終生支援を惜しまない。その上、大借金までして英世に尽力するのである。勿論貸し主は男、それを知った母や妻は蛇蝎(だかつ)の如く英世を嫌う。
 英世は己の見栄えと能力を天秤(てんびん)にかけ、医師という職業を選択した。帝大医学部進学は夢のまた夢、貧乏学生でも資格が取得できる道……医術予備校「済生学舎」で学び「医術開業試験・前期後期」を合格した後、「打診法」という臨床試験も不自由な左手を駆使して乗り切り、ついに医師免許を手にしたのである、明治30年(1897)10月・英世21歳。取得後3年間、順天堂医院・北星伝染病研究所・助手、横浜海港検疫所・医官補として勤務した。しかし、英世の気は晴れない、検査器具の用意、洗浄では医学の道は程遠い上に己の学歴職歴では将来の展望も暗い。日本に見切りをつけて勇躍アメリカに乗り込む。
 明治33年(1900)12月5日、片道乗船券1枚を握りしめて日本を出奔(しゅっぽん)、横浜港から太平洋を横断、サンフランシスコ港に22日着岸。頼るはアメリカ東海岸、フィラデルフィアのフレキスナー教授のもとであるが一方的に押しかけるのみ。25日クリスマス、ユニオンパシフィック鉄道(大陸横断鉄道)で西端から東端5日間の旅、暮れも押しつまった12月29日に到着し博士邸に向かった。博士は仰天する、日本来訪の際に案内の通訳を担当した英世と思い出すのに苦労した。追い帰すにしても金(かね)無し着替え1枚、「何とか泊めて欲しい、博士の勤務先で働きたい」と言い張る英世の粘りに博士は渋々の渋であるが、宿と働き場所を調達し、果ては面倒をみる羽目になったのである。

――またもやつづく――

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2022年6月15日号TOP