2022年5月15日号
○近代明治期の医療(6)
野口英世 その3
英世の生涯
福島会津猪苗代翁島村(いなわしろおきなじまむら)出身の英世、幼少時の野口家の家計は悲惨であった。代々女系の家系で、いずれの婿(むこ)も働きなしの大酒飲みとなれば家計は火の車。英世の母シカ(1853~1918(65歳没))は5歳で子守奉公に出され、シカの父善之助は城代の武家屋敷奉公して得た労賃は、家に帰り着く前に酒屋で飲み干(ほ)し文(もん)無し状態になり家に寄りつかず、シカの母ミサも家を捨てる。年端(としは)も行かぬシカが孤軍奮闘して家を守った、シカ20歳に婿(むこ)養子の話が持ち上がり、近隣の22歳小檜山(こびやま)佐代助と明治5(1872)年、祝言(しゅうげん)をあげた。佐代助はごく小柄であった(英世の身丈152cmは佐代助の遺伝であろう)。彼はすぐれた頭脳の持ち主であったが、底無し沼の大酒飲みで酒に飲まれてしまう質(たち)であった。シカは父と夫の大酒に泣かされ借金におわれっ放しの暮らしであった。女児出産の2年後、明治9(1876)年11月9日清作(後の英世)を生む。女系の野口家に久々の男児誕生で女衆は慶(よろこ)びに包まれた。祝福されて誕生した清作であったが、1歳6ヶ月、明治11(1878)年4月30日(火)、家族が目を離した隙(すき)に囲炉裏(いろり)に転がり落ちて左腕を焼いてしまう。
以上のように英世の子ども時代は全く恵まれなかったが、母シカの愛はたっぷり受けて育った。そして英世は20歳で故郷猪苗代をあとに上京、篤志家(とくしか)の支援により医学の道を進むことになる。貧乏な英世は、大学医学部進学は無理、済生学舎(さいせいがくしゃ)に通い医術開業試験の前期後期に合格、明治30(1897)年、英世21歳で医師免許を手にした。
英世の幸運の始まりは、明治32(1899)年4月にアメリカからホプキンス大学病理医学教授シモン・フレキスナー博士が来日したことである。英世はなりふり構わず博士に自分を売り込んだ。その1年半後、明治33(1900)年12月暮れ、引き受け先も決まらないまま金(かね)無く、着替えの入った鞄(かばん)一つぶら下げてアメリカへ乗り込んだ。そして引き受けるつもりのないフレキスナー博士のもとに転がり込み、博士のポケットマネーで助手に雇ってもらうことに成功した。このすさまじい行動力と図々しさこそ英世の真骨頂だが、北里柴三郎や高峰譲吉には好まれなかった。
明治37(1904)年10月、ニューヨークに新設されたロックフェラー医学研究所に高給で招聘(しょうへい)され、俄然(がぜん)種々の実験・研究・論文作成に没頭する。「蛇毒」の研究を手始めに梅毒の病原体トリポネマパリダム(スピロヘータ・パリダ)の検出に躍起になるが、これは明治38(1905)年ドイツのシャウデンとホフマンに先を越された。その6年後(1911)、英世は梅毒スピロヘータの純粋培養に成功(後に疑問視される)、梅毒に起因する慢性疾患の麻痺狂(まひきょう)及び脊髄癆(せきずいろう)患者の脳内にその病原体を検出したとしてノーベル賞候補(1914年、1915年、1920年)に挙げられ最終候補に残るが、いずれの年度も授賞は叶わなかった。
大正4(1915)年、15年ぶりに英世は日本を訪れて故郷猪苗代に錦を飾った。極貧で借金まみれ、左手を手ん棒とさげすまれた英世は今や39歳、細菌学者「世界の野口」と称賛され尊敬される人物になっていた。
―つづく―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)