京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その42 ―

近代明治期の医療
 野口英世 その9
 英世と黄熱病
 先月号では、英世(1876~1928)が1928年5月に西アフリカ・ナイジェリアのラゴスで黄熱病に罹患したことを述べたが、そもそもアメリカNY(ニューヨーク)ロックフェラー医研勤務、伝染病研究の最先端をひた走る英世なにゆえが、何故(なにゆえ)アフリカくんだりまで飛ぶことになったのか?
 それは4年前に遡(さかのぼ)る、1924年7月、ジャマイカのキングストンで開催された「国際黄熱病委員会」で、ハバ(キューバ)ナ大学・アグロモンテとハーバード大学マックスタイナーの両医師が、英世の提唱する「黄熱病原体レプトスピラ・イクテロイデス」は、実は「ワイル氏病原菌のイクテロヘモラギエ」と同一であり、黄熱病原菌ではないと発表、真っ向から英世説に反論したのである。その上、英世が開発した「黄熱ワクチン」も有効性はなかったなど不利な情報ばかりが英世に寄せられていた。かくなる上は、英世自ら現地西アフリカへ飛び、黄熱病原体の正体を解明するしかなく、ひいてはN・Yロックフェラー財団探査隊黄熱病研究本部の名誉を守るためでもあった。
 英世に与えられた調査期限は3ヶ月、1927年10月22日、単身アッパン号に乗船、NY港を出航、11月18日ガーナ・アクラ港に到着した。すぐさま海岸に沿い、丘をのぼり白亜のコレブ医学研究所及び病院に向かった。
 既にこの時期、イギリス人ストークス博士は(1927・9・16死去)「黄熱病原体は細菌ではなく、それよりずっと微細な濾(ろ)過(か)性病原体(いわゆるウィルス)である」と断言、やはり英世の細菌説を否定していた。その黄熱病研究の最先端を走るストークス博士が、英世がアフリカへ渡る直前、9月16日に派遣先のラゴス黄熱病研究本部で黄熱病に罹患して命を落とした。3ヶ月の調査期間が過ぎても確(かく)たる成果はあがらず英世は焦(あせ)りと苛(いら)立(だ)ちで不安にさいなまれる日々であったが、3月19日真夜中、死んだばかりの実験用アカゲザルを解剖したところ、臓器全てに黄熱病末期症状の黒ずみが顕著であった。すぐさま臓器を採取し組織標本を作製、病原体の探索にかかる。そして4日後、英世は愛用の光学顕微鏡でその棒状の病原体を写し出すことに成功した、生涯最上の歓喜の一瞬であったろう。英世の恩師、NYのフレキスナー博士に「ついに黄熱病原体の微生物を発見」という電報を打ち、博士も大いに賞賛する手紙を英世に投函(とうかん)した。その手紙がアクラの英世に届いた翌日、即ち4月21日(1928年)に英世はラゴス研究本部から黄熱研究者ハドソンの訪問を受けた。同僚といえるがライバルでもある。
 ハドソンは英世が発見したと言う「黄熱病原菌」の臓器切片標本スライドを顕微鏡にセットして長々と執拗(しつよう)に観察して、ついに口を開いた、
 「野口博士……この菌は枯草菌です」“黄熱病原菌は未だ見たことはないが、この菌なら間違いなく枯草菌です”の言葉を呑(の)み込んだ。
 英世が寝食を忘れ、心臓肥大と糖尿病で体調をくず崩(くず)しながらも黄熱病原菌を発見できたという思い込みは、この「枯草菌」という3文字で打ち砕かれた。黄熱病の正体はいまだ魑魅魍魎(ちみもうりょう)のままであった。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2022年11月15日号TOP