京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その51 ―

明治・大正の医療
 野口英世 その18 英世追慕
 前号まで赤貧百姓の小倅(こせがれ)・英世が「世界の英世」となっていく足跡を述べてきたが、それにしても英世の活躍ぶりは目覚(めざ)ましく、着実にチャンスをものにして医学の世界を昇りつめていく。
猪苗代時代(0歳(1876年)~17歳(1893年))
 生まれは福島の田舎も田舎、北に磐梯山(ばんだいさん)が鎮座するその南裾野に位置する耶麻(やま)郡猪苗代翁島村(おきなじま)が世の故郷で、住民数十戸の小さな集落は三城潟(さんじょうがた)と呼ばれていた。
 (明治9)1876年11月9日生まれ、1歳半(1878年4月)に囲炉裏(いろり)に転がり落ちて左手首を焼き焦がし、「手ん棒(てんぼう)」と囃(はや)したてられ苛められた日々であった。1889年に三ツ和尋常小学校を卒業し、主席訓導で担任でもあった「小林榮(さかえ)」の尽力で猪苗代高等小学校に入学することが出来た。その3年目の1892年10月、奇形の左手首を手術する。執刀医は渡部鼎は東京(わたなべかなえ)は東京帝大及びカリフォルニア大学で医学を修(おさ)めた外科医であった。一塊(ひとかたまり)の形状をなしていた左手首は、その細かく縮(ちぢ)こんだ指の第一関節から先は折れ曲がり欠損していたが、なんとか物を掴(つか)める形状に形成された。英世は物心(ものごころ)がついて以来、鉛の如く心身に沁みついた左手首のコンプレックスから多少解放されたのである。翌18936年(明治26)、高等小学校を卒業した英世はドクトル渡部鼎が医院長を務める会津若松の「会陽医院」に入門する、英世17歳。ここまでが猪苗代時代の英世である。
会津若松時代(17歳~20歳)
 英世は左手首形成手術が縁で渡部ドクトルの会陽医院の学僕(住み込み学徒)に雇われる。医院は会津若松中町にあり、猪苗代町から西へ25kmの距離に位置する。英世は1893年(明治26)4月~1895年(明治28)9月の3年余りを学僕で過ごす。その当時、会津には歯科医院が皆無であったため、ドクトルは夏期に臨時の歯科医・血脇守之助(1870~1947)を東京から招聘(しょうへい)していた。血脇はいつ何時も医学書―それも原書―を抱えて勉学に励んでいる学僕の英世を好ましく思い、「上京の折りにはうちに立ち寄ってみなさい」と声をかけた。英世はこの申し出を天の声の如く心に留(とど)めた。但し、英世にはもう一つの顔があった。彼の溢(あふ)れんばかりの体内蓄積(ちくせき)エネルギーが暴発、夜な夜な街に出かけ女遊び・女買いに走った挙句(あげく)、梅毒に罹患した。晩年、その後遺症に苦しむことになる。
上京・医術開業免許取得時代(20歳~21歳)
 1896年(明治29)9月、英世は医師免許取得に向けて上京、まずは前期試験に合格した。その余勢(よせい)を駆って、血脇が経営する東京市芝区伊皿子町(しばくいさらごまち)の「高山歯科医学院」を訪ねた。今や金(かね)なし、宿なし、仕事なしの英世は、血脇に窮状を訴えた。血脇は英世を見捨てず、学院の玄関番、用務員の仕事を与えて居場所を確保の上、後期受験勉強を応援した。しかし、後期試験はペーパーテストの他に臨床試験が課せられる。英世も独学のみで後期試験突破は無理だと悟り、1897(明治30)に医師養成予備塾で実績のある「済生学舎(さいせいがくしゃ)」に入学、この年の10月に合格。晴れて医術開業免許を取得した。

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

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