2023年12月15日号
⃝明治・大正の医療
その22 英世追慕④
前号まで野口英世(1876〜1928)のNY(ニューヨーク)・ロックフェラー医研での活躍を述べてきたが、1911年に家庭生活にも大きな変化があった。
英世は1900年12月、24歳でアメリカに渡り、Penn大のフレキスナー博士のもとで研鑽(けんさん)を積み、博士共々1904年10月、新設のNYロックフェラー医学研究所に移籍した。以降、1928年アフリカに客死(かくし)するまでロック医研を離れなかった。
英世の結婚
1911年4月、英世はアパートに同居していた留学生の宮原立太郎(たつたろう)((1878~1936)日本にX線機器を導入)や荒木紀男((1885~1976)歯科医、歯科材料を開発)に「結婚するから」とアパートを出てマンハッタン・セントラルパークの西側のアパート5階に新世帯を構えた。
妻・Mary Louretta Dardis |
(1876. 6. 1~1947. 12. 31) |
メリー・ロレッタ・ダージス、ニュージャージィ市に提出された婚姻証明書の日付は1911年4月10日、年齢:英世・34歳 妻35歳 職業欄:英世 医者(Physician)妻 空白(無職) 住所:308WIIIst.と記載・受理されている。徒手空拳(としゅくうけん)の英世が渡米して10年、ともかく家族を持つ身になったのである。
妻・35歳ペンシルベニア州スクラントン出身 出生地・スクラントンはNYの北西160kmに位置し、1900年代初頭は炭坑・鉄鋼の街で栄えた。メリーの両親はアイルランドからの移民で、父と3人の弟はいずれも臨時日雇炭坑夫で、その日暮らしの貧乏長屋の住人であった。それでメリーは教育教養を身につける機会に恵まれず、15歳からメード・子守りに出て家計を助け、のちNYに出て大衆酒場に勤めた。そこで知りあったのが英世である。
メリーは身の丈6尺近い大柄な女人で女っぷりのよい美人であり、小男の英世(150cm)は大女の美女メリーを非常に気にいった。またメリーは聞きしに勝(まさ)る大酒飲みであったが、英世も酒飲みであったから全く意に介さなかった。それにしてもメリーの35歳までの足跡は不明である、多分暮らしぶりは身過ぎ世過ぎの苦労の連続だったと推察できるが、英世にはそれも好ましいことであり、医者連中に介在する学閥・門閥をメリーに取り繕う必要はなく、ありのままの自分をさらけ出しても構わない相手だったのである。
実は 博士や猪苗代時代の小林榮(さかえ)先生が教育教養を身につけた良家の子女を世話しようと試みたが、英世は全く耳を貸さずメリーと結婚してしまったのである。
ところでロック医研では結婚時には花嫁花婿を所員家族たちにお披露目するしきたりがあった。そしてそのほとんどの新妻はそれ相応のふさわしい履歴の持ち主であったから、とかくの良からぬ噂(うわさ)が絶えない無教養のメリーを所員一同の矢面(やおもて)に立たせることを英世は極力避(さ)けたかった。しかし、新妻お披露目パーティーは逃(のが)れる術(すべ)がなく、ごく内輪だけで催すことにした。案(あん)の定(じょう)、列席の婦人連と新妻のメリーは、和気藹々(わきあいあい)とはいかず、早々にお開きになった。とはいえ、この中年同士(どうし)の結婚は英世にとって成功であった。なぜなら1911年以降、英世は医学的業績を着々と重ねて「世界の英世」に変貌して名声を上げたのである。
―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)