京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その44 ―

⃝近代明治期の医療(5)
 野口英世 その12
 フィラデルフィアと英世
 英世(1876~1928)が1900年12 月に渡米、まず最初に落ちついた先は、西武サンフランシスコから東へ4650km 離れた東部ペンシルベニア州フィラデルフィア(Phila に略)であった。Phila には唯一の頼り、ペンシルベニア大学医学部教授サイモン・フレキスナー博士(1863~1946)がいる、博士を頼れば後(あと)は何とかなると信じて日本を出てきた英世であった。
 そもそも生まれ故郷の福島猪苗代村で心温まる思い出は一つとしてない。1歳半の時、囲炉裏(いろり)に転がり落ちて焼け焦(こ)げた左手首を「清(せい)ぼっこ」と悪童どもにからかわれ、いじめられた。「ぼっこ」は「短い棒」を意味し、清ぼっこは清吉(せいきち)(英世の幼名)の手首を細い一本棒になぞらえたのである。「手ん棒」と云い、「清ぼっこ」と云い、子供の見る眼に容赦(ようしゃ)はない。英世はおとなしいごく平凡な泣き虫の児童で苛(いじ)めに耐えられず、小学3年時には登校拒否児になったという。それが4年生になって一変する、猛烈に勉学に励み、学業で断トツ一番になり、卒業まで主席を維持した。その結果、英世を「ぼっこ」と蔑(さげす)む子はいなくなった。そして貧乏な水呑(みずのみ)百姓の小倅(こせがれ)にすぎない英世は、終生彼を支援することになる小林榮(さかえ)と血脇守之助に巡りあい、上級学校へ進学の道が開け、ついに医師開業免許取得に辿り着いたのである。しかし、私塾の済生学舎出身それも数ヵ月在籍しただけの医師ではさしたる学歴と言えず、学閥・門閥・閨閥(けいばつ)一切なしの英世は日本での栄達は到底望めないであろう。
 留学するにしてもドイツは条件の揃(そろ)った未来の日本医学を担う帝大卒の輩(やから)が占(し)めている。当時の医学留学先は西欧が王道でアメリカの医学は数段下に見られていた。しかし、選択の余地はない、「来ても良い」と声をかけてくれた(と英世は独(ひと)り合点(がてん)した)のは前述のフレキスナー博士である。英世24歳、日本の医学界に見切りをつけてアメリカ大陸を西から東へ4日間、汽車にゆられてPhila に到着したのは1900年暮れも押し迫った12月30日であった。Phila はNY とワシントンDC の中間に位置する都市で1790~1800年の10年間はアメリカの首都で経済の中心として大いに栄えていた。
 そのPhila で屈指の大富豪モリス家は、大の日本人贔屓(びいき)でモリス夫人(1836~1924)は毎月第一土曜日に邸で「日本人会」を催し、邦人をもてなしていた。英世は日本人恋しさと Phila の情報収集のため、時に参加して愉しんだ。常連の津田梅子(1864~1929)、内村鑑三(1861~1930)、新渡戸稲造(1862~1933)、佐伯理一郎(1862~1953)、馬場辰猪(1850~1888)などは英世より多少世代が早く英世と同席してはいないと思われる。一方、星(ほし)一 (はじめ) (1873~1951)、児玉信嘉(1860~1932)、河井道子(1877~1953)、鈴木歌子(1880~?)は同席して談話をしているし、星一に至っては公私にわたり終生の友であった。
 英世の Phila の在住は1901年1月から1904年9月までの3年余りだったが、1903年10月からの1年間はデンマークのコペンハーゲン血清研究所・所長マドセン博士のもとに留学しているので、実質は2年8ヶ月の Phila 暮らしであった。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2023年1月15日号TOP