京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その49 ―

⃝明治中期の医療(10)
野口英世 その 16
黄熱に斃(たお)れた英世

  • 1928 年3月〜4月:3月19日に「黄熱病原体は濾過性微生物である」……英世(アフリカ・アクラ)はフレキスナー博士(アメリカ・N.Y)に黄熱病原体を発見と書状で報告
  • 〃 3月21日:NY の妻メリーに「今、黄熱病菌を見つけた、予防法や治療法の目処(めど)が立ったら帰国する」と電報を打つ
  • 〃 5月1日:妻メリーに「5月19日にはアクラを出港、6月半ばまでには家に帰り着く」と打電する
  • 〃 5月4日:英世の帰国旅程は「19 日アクラを発(た)ち、エジプトに立ち寄りトラホームの文献資料と資材を調達して NY に戻る」であり、帰国便の予約も済ませたことを妻メリーに知らせる
  • 〃 5月9日:(以下英世 51 歳)午前10時アクラ港(アクラ~ラゴス間、陸上では 480km)発ラゴス(ナイジェリア)行アッパン号乗船、ラゴスの「ロックフェラー財団西アフリカ黄熱病研究所本部」へ打ち合わせのため出向く 船中泊
  • 〃 5月10日:朝ラゴス着 本部で午前は実験室見学、午後から本部所員と黄熱病討論会、席上で英世が発見した黄熱病原体はどこにでもはびける「枯草菌」ではないかというハドソン医博の指適あり ラゴス泊
  • 〃 5月11日:起床時発熱あり、気に留めず本部訪問、研究施設・体制の充実度に感心する、所員たちと研究報告や討論の後、アクラ行アッパン号に乗船、すでに体調悪し。船上で昆虫学者フィリップ博士と英世2人の写真を撮る(英世の生前最期の写真となる) 船中泊
  • 〃 5月12日:昼過ぎアッパン号アクラ港沖合停泊、土砂降りをついて艀(はしり)で高熱の英世を桟橋に運び、夕方6時にリッジ病院(旧ヨーロピアン病院)入院
  • 〃 5月13日:頭痛と嘔吐、身体の痛みを訴え、黄熱病罹患(りかん)が明白「なぜ・いつ・どこで罹(か)かったのか私にはわからない」とつぶやく、これが英世の生前最期(さいご)の言葉
  • 〃 5月14日:英世の黄熱罹患に所員一同狼狽(ろうばい)拡散、症状持ち直すが棺は注文する
  • 〃 5月15〜16日:空腹を訴え症状軽減か
  • 〃 5月17日:一進一退、予断許さず
  • 〃 5月18日:再び快方に向かい希望持つ
  • 〃 5月19日:急激な症状悪化、癲癇(てんかん)発作
  • 〃 5月20日:意識昏迷、譫妄(せんもう)状態で危篤(きとく)
  • 〃 5月21日:朝、黄熱病末期絶望的状況午前 11 時 50 分 51 歳6ヶ月英世絶命、午後1時 30 分英世が最も信頼していた W(ウイリアム)・ヤング医師(1886 〜 1928)が英世を病理解剖、梅毒性心臓肥大が見られた、死因は黄熱病
  • 〃 5月22日:200 ポンド(約 91kg)の鉛を詰めた棺に遺体を安置密封する
    〃 5月23日:午前、アラクのアッシャータウンの教会で葬儀、医師マハフィー夫妻、ヤング医師夫妻、ビウキス、チャンバン、ウィリアムス等、参列、のち、ケーパン号に棺を積み込み、午後3時 NY に向けて出港、なお英世死去の報は 23 日以降、全世界の新聞に「科学の殉教者」という見出しで報道された。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2023年6月15日号TOP