2023年3月15日号
⃝近代明治中期の医療(7)
野口英世 その 13
デンマークと英世②
英世の生涯(1876~1928)で燦然(さんぜん)と輝いた1年を挙げるとすれば、やはりデンマーク(丁抹)留学の一年(1903年10月~1904年9月)であろう。
英世は恩師フレキスナー博士の強力な推挙でデンマーク・コペンハーゲン大学から独立した「国立血清研究所(SSI)」に留学した。正確には研究所内の「医学微生物研究所・血清治療部門」に配属された。英世27歳。
所長トーバル・マドセン博士(1870~1957)は、33歳の若さだが新進気鋭(しんしんきえい)の血清学の権威であった。英世はマドセンのもとで研究テーマ「免疫抗体血清学」を学ぶためであり、寄宿先は研究所の近くの兵舎の一角に決めた。
そもそもマドセン家はデンマークの名門でありマドセンの父は当時、内閣陸軍大臣の要職にある人物であった。下宿の傍(かたわ)らにはデンマーク陸軍の兵舎があり、軍曹一家が舎監として住んでいた。
研究所は地下1階、地上4階、白い外壁と黒瓦(かわら)の瀟洒(しょうしゃ)な北欧的建造物であった。英世は後年「仕事は正確に定量的ということをマドセン先生から徹底的に教え込まれた。そしてデンマークでの一年は、私の生涯で最も楽しい時期であった」と述懐している。彼は幼少期の頃から規則正しく生活することが苦手で金銭にもだらしなく借金魔と呼ばれていた、また15、16歳頃から性欲御(ぎょ)し難(がた)く女買いに走った結果、梅毒に罹(かか)って心臓肥大に悩まされることになる。このような諸々(もろもろ)の若さゆえの無分別は、わずか一年であったがデンマーク暮らしで多少なりとも是正された。猪苗代(いなわしろ)村、会津の町、東京伊皿子坂上(いさらこさかうえ)、いずれも居心地悪くコンプレックスを跳ね返し肩肘張って生きていた英世だが、アメリカ・フィラデルフィアでも味わうことが出来なかった精神的人間的解放感をデンマークに来てみて初めて実感したのである。
英世が1912年5月にマドセンに宛てた書状の中の「薔薇(ばら)園」「馬小屋」「実験冷凍室」とは研究所界隈の建物風景であり、そこには英世が恋した丸顔の可憐な娘がいたはずである。留学期限の一年が終わりN.Yに引きあげる際に娘の顔写真を持ち帰り、テーブルの中央にその写真立てを飾った、という流れで我々は英世のデンマークの恋を知ることになるが、大著「野口英世」(復刻昭和8年版)の著者・奥村鶴吉(1881~1959)によると英世の顔写真の相手は「娘」ではなく「令嬢」であり、恋ではなく「縁談」であったという。曰(いわ)く「先方はコペンハーゲンの名流の出ださうで、わざわざ使者が丁抹(デンマーク)から紐育(ニューヨーク)に来た位(くらい)に話が進んで、彼女の寫眞が拡大されて、下宿の壁間(へきかん)に掲げられてゐ(い)た。圓顔(まるがお)だったか、瓜實顔(うりざねがお)だったかはっきり編者(奥村)は記憶せぬが、貴族的な端麗(たんれい)な容姿であったことは慥(たし)かである。ところが此話はどういふ譯(わけ)か中絶して仕舞(しま)った。編者が三十九年(明治39年、1906年)の夏に(紐育の)彼を訪れた頃には既に其寫眞は見えなかった。」と記述している。「軍曹の娘」はどこに消えたものやら「名流の出の令嬢」に取って変わられている、謎は深まるばかりである。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)