投稿エッセイ 北山杉 「医者は賢くなくていい」という命題は成立するのか?

中京西部医師会 蝶勢 弘行

 ときは遡り,私が医学生のころ。テレビで討論会をしていて,お題が「医師不足の時代をいかにするか」みたいなことだったと思う。そこで年配の医師がぽろっと「医者は賢くなくていいんですよ」と言った。司会のアナウンサーは「賢くなくていいんですか?」と,ちょっとギョッとした感じで問うた。老医師は,もごもごと語尾をにごされた。
 当時の私は,老医師の真意を計りかねた。だって,あるていど賢くなければ,こうして医学部に合格することもできない。なにを言ってるんだろう,この人。おそらく視聴者はみな,同様の感想を持っていたに違いない。
 真理とは深く,ひと言では表現できないことが多い。それはときに逆説的でさえある。老医師はその「逆説性」を,それまでの長い人生の中で醸成していたのだと思う。さて私は,医業を始めて約 30年になります。今の私なら,この老医師の「真意」を説明できるように思う。これは特に「外来医」という括りにおいて。
 外来医は,受診者を「そのまま人間として」診ることが求められる。なぜなら,患者さんはその日,自宅という「生活しているところ」から来ている。患者さんは各々の「症状」を持ちつつも,「生活者」たる自分を捨てていない。家族,仕事,趣味,酒,タバコ,等々。いろんなストレスやしがらみに縛られる一方で,慰めとなる愉しみを持っている。
 では例えば,ICU に入っている患者さんはどうか。医療側がほぼ 100%コントロールしていて,患者さんの「生活者」たる側面は,ほぼ消失している。それは重症たるがゆえに,医療側に 100%委ねる必要があるから。そこでは患者さんの個性はなくなり,生理現象をともなう「モノ」に近くなっている。
 つまり,外来医が対峙する宿命にあるのは「患者さんの個性」である。どんな患者さんも「人格」,「生活」そして「これまでの人生」を,すべからく持っておられる。この「多様性」を認め,許すこと。この能力は,もしかしたら外来医に求められる第一の適性かもしれない。どれだけ医学的なスキルがあったとしても,この適性がないと,いわゆるラポール形成が難しい状況が出てくる。患者さんにしてみれば,「あの先生は上からばかりで,ぜんぜん話を聴いてくれない」という評価になってしまう。そうなると,妥当な診療は難しくなる。
 患者さんの癖や偏りを把握しつつも,怒らず,先入観を持たず,平静に診療を進める能力。これは医学というより「人間学」と呼ばれるものだ。こうした人間学のスキルは,それまでの人生の中で,どれだけの幅の人間と触れ合ってきたかによって決まると思う。言い換えると,医学以外の行動や思索を,どれだけしてきたか。外来医は,患者さんに対する寛容性を問われているのである。
 したがって,外来医の脳みそは「鈍」な方がよい。鈍な方が,共感を醸成しやすくなる。老医師が言った「医者は賢くなくていい」という言葉の真意は,ここにある。患者さんの目線まで降りていって,その心象を感じ取ること。患者さんが医者に求めているのは,案外こういうものなのかもしれない。患者さんは,全人的で不変の人格に触れて,癒されるのである。老医師が仰ったように,医者には特別な才能は要らないように思う。
 いや,ちょっと待ってくれ。脳みそが「鈍」で,そのまま医学知識もおろそかになったら?それは恐ろしい事態である。いわゆる「ヤブ医者」の出来上がり。「満足した豚」になったとたん,すべては廃墟になっていきます。特別な才能がないからこそ,生涯にわたり勉強が必要なのです。「鈍」だけど,愚直に努力を続ける医者でありたい。あの老医師の「真意」について,想いをめぐらす今日この頃です。

2023年5月15日号TOP