京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その54 ―

⃝明治・大正の医療
 その21 英世追慕③
 前号に続く
 英世(1876〜1928)はマドセン博士の厚い信頼と友情に支えられ、コペンハーゲンにあるデンマーク国立血清研究所の1年間(1903年10月〜1904年10月)留学時代を快適に終えて、アメリカのフレキスナー博士の勤務先・ペンシルベニア(ペンシルベニア州フィラデルフィア)大学(ペン大(Penn大))に戻ることになる。ところが時を同じくしてフレキスナー博士が新しく設立されるNYのロックフェラー医学研究所の部長(のちに所長)に招携されたため、博士子飼いの英世もペン大に戻ることなくロック医研の助手に収まる。そして、この1904年秋以降アフリカ・アクラで客死する1928年5月まで英世はNYのロック医研で大いに飛躍する。
ロックフェラー医学研究所・助手時代(28歳(1904.10月)〜31歳)
 新設なったロック医研でフレキスナー博士のもと(既(1901.11月)に英世は科学アカデミー(サンフランシスコ)で蛇毒の研究発表をしていた)、いよいよ英世は超手強(てごわ)い「梅毒」の発生原因とその予防研究に乗り出す。
 それにつけてもデンマークの留学時代が懐かしい、寄宿先の娘との恋愛である。アメリカに戻る際に娘に言い残した「2年待ってくれ、迎えに行くから」の約束はNYの喧騒(けんそう)とロック医研の夜(よ)を日(ひ)に継(つ)ぐ神経を尖(とが)らす実験の日々に埋もれてしまった。そして英世の机に飾られていたデンマークの娘の写真は消えた。
 1905年3月、ドイツのシャウディンとホフマンは梅毒疹採取で“極めて微細な動いている白色螺旋(らせん)状菌”を発見した、いわゆる梅毒スピロヘータである。
ロック医研・準正員、副正員時代(32歳(1909)〜37歳(1914.7月正員))
 英世は、ロック医研で準正員に昇格(1909)する2年前にペン大(1907.6月)から理学修士(マスター・オブ・サイエンス)の学位を授与された。のびのびになっていた蛇毒の著述は、この(1909)年6月に315頁の大著となって出版された。梅毒研究に的を絞るが、スピロヘータ発見(1905)の2年後にワッセルマンが梅毒診断法を発案した。英世はワッセルマンの診断法に血清学を取り込んだ論文を矢継(やつ)ぎ早(ばや)に発表する。

  • 梅毒の血清的診断に関する考察
  • 所謂(いわゆる)梅毒抗毒素の運命
  • ワッセルマンに対するプロティン、リポイド及び塩の関連
  • 梅毒の血清的診断に関する簡便な方法

など多数である。英世の次なる目論見(もくろみ)は梅毒スピロヘータの“純粋培養”である、他の有機体と混合せずに単独で培養するのである。英世は梅毒患者の梅毒を移植する動物(媒体)を「兎」(うさぎ)に託し、兎の睾丸(こうがん)に接種した。
梅毒スピロヘータの純粋培養(35(1911)歳)
 英世の研究室には百羽(匹)以上の兎が集められ、完全に殺菌した睾丸の一片づつを血清水が入った試験管に投入、管の中にスピロヘータが発生するか否かの実験である。万が一、発生して純粋培養が可能になれば注射液或いは血清を製出して梅毒の治癒(ちゆ)も夢ではないと英世は寝る間も惜しんで実験に没頭した――兎の睾丸は13代継代(けいだい)して培養の純度を高め、ついに健康な兎の睾丸に梅毒性睾丸炎を起こさせるに至った――英世は成功を確信した。(但し、この純粋培養実験は以後現在まで誰も成功していない)

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2023年11月15日号TOP