京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その53 ―

⃝明治・大正の医療
 野口英世 その 20 英世追慕②
 前号に続く
 英世(23歳)、わずか4ヶ月(1899年6月~9月末)程の横浜海港検疫所「検疫医官補」(けんえきいかんほ)としての勤務であったが、英世の生涯にとって極めて重要な意味を持つ。
 着任して3ヶ月後の9月初め、英世は検疫官たちと横浜沖に停泊中の「亜米利加(アメリカ)丸」の船員乗客の検疫に向かった。そこで英世たちは、高熱を発し淋巴(リンパ)腺が腫(は)れて悪寒戦慄(おかんせんりつ)している船員をみつけ「ペスト」を疑う。のちに北里と志賀潔が呼ばれペストと診断同定して、このペスト騒動は収まる。翌月の10月、英世は北里からペスト防疫の為の国際予防委(一行15名)員会の一員に推薦(すいせん)、清国牛荘(中国ニューチャン 現・営口(インコウ))に赴く。
牛荘赴任時代(24歳)1899年10月~1900年6月下旬
 10月の牛荘は非常に寒いが、英世は夏服の背広である。仕度(したく)金と旅費代は全額女と酒に使い果たし、冬服も外套(がいとう)も買えなかったのである。牛荘は既にペストは治まり医師団は為すことがなくなったので住民の健康診断や医療相談を受けて終了した。
渡米画策期(24歳)1900年7月~11月
 牛荘から帰国して英世はすぐさまアメリカに渡る算段を始める。実は北里伝研勤務の折り、アメリカの医師団がフィリピンの衛生状態視察の途次に伝研に立ち寄ったのである。そこで団長のフレキスナー博士の通訳を務めたのが英世で、通訳もそこそこに自分は博士のもとで研究をしたいので是が非でもアメリカに行きたいと博士に強引に訴えた。博士は「ほう、そうですか」と儀礼的な返答で終わった。
アメリカ・フィラデルフィア時代(24歳(1900)~27歳(1903))
 英世を乗せた「亜米利加(アメリカ)丸」は1900年12月5日に横浜港を出帆し、22日に西海岸サンフランシスコ港に着岸入港。大陸横断鉄道汽車に乗り換えて12月28日に東海岸ワシントン駅着。駅には30日に降り立ち、馬車で博士の大学研究室へ向かった。
 「博士、やって来ました!」と東洋人の小男が懐(なつ)かしげに挨拶するが、博士驚愕(きょうがく)まるで覚えていなかった。しかし、着替(きが)え一組を詰めた小鞄(かばん)のみを手に持った文無(もんな)しの若者を門前払いにも出来ず、結局博士の私的助手に雇うことになる。
ペンシルベニア大学・助手時代(25歳(1901)~27歳(1903))
 窮余の一策、博士が英世に与えたテーマは博士の上司ミッチェル博士が取り組んでいる毒蛇の蛇毒と免疫抗毒素の研究の一端を担うことであった。この蛇毒の研究を機に英世の学者人生の幕が開(あ)く。またフレキスナー博士も新設されるロックフェラー医学研究所の所長就任が決まる。
デンマーク国立血清研究所・留学時代(27歳(1903)~28歳(1904))
 首都コペンハーゲンは美しくゆったりした好ましい街で、英世は殊(こと)の外(ほか)に気にいった。所長のマドセン(1870~1957)は血清学の第一人者、若く(33歳)開放的な人柄だが、研究は精密で緻密(ちみつ)、フレキスナーの狙(ねら)いは、英世にこの研究姿勢を習得させることも含まれていた。

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

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