京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その52 ―

明治・大正の医療
野口英世 その19 英世追慕
前号で1897(明治30)年10月、英世は後期医術試験に合格、晴れて「医術開業免許」を取得したことを述べた。
高山歯科医学院教師時代 (21歳)1897年10月
 正式に国家資格を手にしたことで、それまでの医学院学僕(がくぼく)(小使い・門番)の立場であった英世が、その日を境に教壇に立って「病理学」「薬物」「外科」「口腔学」の4講座を受け持つ講師になった、それは夜間部のみの講義であったが、大出世である。後年、英世も「あの時ほど痛快なことはなかった、なにしろ外で下足番をしていた自分が一転、講義室で学生に授業する先生ってことだからね!」と語っている。もちろん、この人選は既述の歯科医・血脇守之助(終生英世の恩人)が懇意の医学院長・高山紀斎に英世を強力に推薦したことに拠(よ)る。
順天堂医院修業時代 (21歳)1897年11月
 英世は歯科医学院の講師で終わるつもりは全くなかった。本格的な医学の道を進むには優秀な臨床医が在籍する「順天堂医院」で学びたいと血脇に申し出た。血脇は医術開業試験出身の英世の望みを叶えるために八方手を尽くした。順天堂での英世は患者の治療報告や医事雑誌の編集などの仕事に満足していたが、本来自分がめざす基礎医学(左腕が自由に使えない身では臨床医学は不利と自己判断した)の研究はここ順天堂はふさわしくないと悟り、再々度また血脇に相談、基礎医学分野で英世が熱望する細菌学研究は「北里伝染病研究所」に及(し)くは莫(な)いという結論に至った。しかし、帝大出身者が犇(ひし)めく伝研に、済生学舎から医術試験あがりの英世ではいかにも学歴・経歴が不足であったが、帝大に反撥(はんぱつ)心を持つ北里柴三郎の英断で1898年4月、英世は「見習助手」の身分で入所した。
北里伝染病研究所助手時代 22歳 1898(明治31)年4月
 感染症学の泰斗(たいと)・北里率(ひき)いる精鋭揃いの学者集団・伝染研究所に入所を許可された英世ではあるが、学歴が劣る新参者の英世22歳は、学閥(東京帝大医学部出身)・門閥・閨閥(けいばつ)を誇る所員たちと反(そ)りが合わず、期待に反して居心地(いここち)は良くない。さらに研究所所蔵の稀覯本(きこうぼん)無許可貸出紛失事件が起きるに至り、英世は貸し出人とみなされ窮地に立たされ、所長の北里から横浜の海港検疫所へ転職を勧められる。
横浜海港検疫所時代 23歳(1899.6月~9月)
 左遷とも思われる横浜長浜にある海港検疫所に検疫医官補(医官は星野乙一郎)として1899年6月(中村澄夫氏説)に赴任した。
 検疫医は入港した船に番船で乗りつけて乗船し、船内に伝染病感染者や患者の有無を確認・報告する。そして感染が疑われたり罹患(りかん)していれば、直(ただ)ちに該当者を長浜検疫所の隔離病棟に移送し、検査、施療し改めて関連機関に報告する。

―つづく―

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

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