京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その56―

⃝明治・大正の医療
その23 英世追慕⑤
 前号で妻・メリー・ロレッタ(1876~1947)・ダージスについて多少述べた。一方、英世(1876~1928)はフレキスナー博士のもとで蛇毒の研究やトラコーマ、梅毒の病原体の追求や研究で、またたくまに10年が過ぎたであろう。気がつけば自分も早(は)や34歳、遅まきながら家庭を持つのも悪くないと思い始めるが、英世の幼少年時代は決して幸せと呼べるものではなかった。それどころか、飲んだくれアル中の父・佐代助は出稼ぎに出て家に寄りつかず賃仕事で手にする金も飲(の)み代(しろ)に使い果たす甲斐性無し、母シカは盲目の祖母をかかえ、昼夜働き詰めで一家を支えるが食うや食わずの毎日である。住まいと言えばあばらや、筵(むしろ)を垂(た)らしただけの出入り口からは磐梯(ばんだい)おろしが吹きつけ、畳もない土間で極貧暮らし、母がいかに英世を溺愛(できあい)して大事に育てようにも野口一家に「家族団欒(だんらん)」が訪れることはなかった。しかし、今や英世はあの「猪苗代の手ん棒」ではない、NYロックフェラー研究所の輝ける星「世界の英世」である。
 渡米後(1902年)に博士に提出した履歴書に◦会津若松高等学校卒業を「会津若松高等学校卒業」◦医術免許取得試験予備校の済生学舎修了を「東京醫科大学卒業」、加えて◦「医学博士」とまで学歴を詐称(さしょう)したコンプレックスの塊(かたま)りのような26歳の時の英世ではない、あるがままに堂々とNYのマンハッタン通りを往来する34歳の英世になっていた。それでも博士が結婚相手として勧(すす)めるインテリ令嬢には気後(きおく)れする、自分が肩肘(かたひじ)張らずにすむソコソコの女でよいのである。そして出会ったのが臨時炭坑夫の娘、メリー・ロレッタ・ダージスである。英世もメリーも誇れるような家柄ではなく、双方とも絵に描いたような貧乏一家であった。1911年4月10日、さっそく2人はマンハッタン対岸のハドソン郡ホーボーケン町のニュージャージー市役所に婚姻届を出した。34歳英世・35歳メリー、中年夫婦の誕生である。大女(6尺)と小男(5尺)、アイルランド移民の娘と日本人、白人と有色人種、まさに異色の夫婦であったが、2人とも互いに満足していた。ただ英世には持病があった。後に命取りともなる「心臓肥大」ともう一つ「痔(じ)」である。心臓肥大は梅毒性糖尿病によるものであったし、痔は若い時に不衛生にすごした日々のツケが回ったと思われる、なにしろ2、3週間に一度洗湯に行く程度で十代後半は身体と着ている服から異臭が漂(ただよ)うと忠告されたほどの不潔さであったという、結局アメリカで手術をして痔は治癒した。
 英世とメリーの暮らしぶりは至って平穏であった。英世は朝、徒歩でロック医研に向かい、日がな一日自分の研究室で過ごす。研究の進捗(しんちょく)次第では泊まり込むこともあり、生活のすべてをトラコーマ、オロヤ熱、黄熱病などの探究に捧げている。時に未決の課題を家庭に持ち帰ることもあるが、メリーはそれを黙認してくれている。そしてメリー自身も自由気ままに行動する、二人は互(たが)いを束縛しない、その関係は1928年5月、英世(51歳)がアフリカ・アクラで黄熱病に斃(たお)れるまで覆(くつがえ)ることはなかった。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2024年1月15日号TOP