京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ―医師と医学 その61―

明治・大正の医療
 その28 北里柴三郎 その3
 前号で1874年(明治7)8月に施行された「医制」の第13条の項目には、東京医学校(のちの東京大学医学部)の入学規定に「医科入学ハ、十四歳以上十八歳以下ニシテ…略…」と記載されていることを述べた。翌1875年に受験した北里は、当時満22歳・数え年23歳で入学規定に逸脱していたが、明治新政府自体が江戸の封建政治から西欧の近代国家に追いつけ追い越せのスローガンを掲(かか)げてひた走りの日々であったから、北里はその騒動に乗じて提出書類の悉(ことごと)くを「安政三年 (1856)十二月二十一日」出生に仕立てあげている。その東京医学校・医学1科は、東京開成学校の法理文の3科と統合し、2年後の1877 年(明治10)に東京大学(第二次世界大戦前の旧帝大)となった。北里が通う医学1科は本郷元富士見町旧前田藩・上屋敷跡が校舎であった。いわゆる赤門内の校舎は、もともと文政 10 年(1827)に加賀藩12 代当主・前田斉泰(なりやす)(1811 ~ 1884)に嫁(とつ)ぐ第11 代将軍・徳川家斉(いえなり)の息女・溶姫(やすひめ)(1813 ~ 1868)のために建てた朱色の門で加賀藩御守殿門であった。(異聞:将軍家斉1773 ~ 1841 には正室・溶姫、側室24 人、お手付女中など20 人以上で子女は計55 人、将軍在位は50年(1787~1837)に及び、オットセイ将軍と綽名(あだな)された)
 この御門内の校舎で予科の3年(130名の入学者)、本科5年・計8年間在籍し、1883年(明治16)4月21日(卒業生は26名)に卒業した。但し、この年は4月に東京でコレラが流行し、学位授与式は10月27日(土)午後に延期して行われた。
 北里の席次は医学科卒業生26名中8番であった。北里の本音は官費でのドイツ留学であったが、8番では全くその望みはない。ともかく卒業の報告である、まずは熊本から上京してこの日まで絶え間なく支援してくれた同郷の先輩・山田武甫(たけとし)(1832~1893)に伝えた。北里はすでに満30歳、その上、卒業式直前の4月3日に結婚して下宿を引き払い、東京市麴(こうじ)町区飯田町の借家に新所帯を持っていた。妻は「松尾乕(とら)」。
 乕との馴(な)れ初(そ)めは、北里が医学校へ入学するための学資稼(かせ)ぎに「長養軒」という牛乳屋でアルバイトをしたことによる。医学生・北里の役目は、当時まだ日本で馴染(なじ)みが薄い「牛乳」について牛の乳の成分が日本人の健康増進に役立つことを報知し、販売促進させることにあった。ところが長陽軒の店主は北里に牛乳を勧める役目と同時に嫁取りを強力に推(お)した。その嫁候補とは店主の姪(めい)であり、店主の兄・松尾臣善(しげよし)(1843~1916)の次女・乕(1867~1926)であった。
 乕の父・臣善は、旧宇和島(愛媛県・南部)藩士で明治維新後に大蔵省に入省した大蔵官僚で、後に日本銀行第6代総裁(1903~1911の8年間)に昇りつめた人物である。
 北里と乕は、北里が卒業した1883年4月26日に結婚した、北里・満30歳、乕16歳(なお北里の弟・娑袈男(さかお)(1867~1932)は乕の妹・千代と結婚している)。そして就職先は国の政府機関「内務省衛生局」である。北里は大学に助手として残るつもりも、また医者になるつもりも全くなかった。なにしろ幼少時より熊本阿蘇山を仰ぎ見つつ、将来は「軍人さもなくば政治家」になると固(かた)く心に決めていたのであるから。

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

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