2024年5月1日号
⃝明治・大正の医療
その26 北里柴三郎 その1
北里(1853.1.29〜1931.6.)の幼少年時代は、徳川末期・幕末、近代の夜明けであった。彼の生まれ故郷は肥後熊本、阿蘇郡小国(おぐに)町北里村(きたさとむら)である。熊本県の最北端、阿蘇外輪山の外側に位置している。彼の生涯は、この小国町から始まり、熊本へ、熊本から東京へ、そして海を越えてドイツへ羽ばたき、世界のKITASATOになっていった。
彼の生家は、代々、村の総庄屋で彼は4男5女の長男に生まれた。両親、特に母親は武士の出自を持ち、彼をことのほか厳しく育てあげた。
5歳で寺子屋に通い、8歳(1861年)で実家を離れて父方の伯母宅に預けられ、四書五経を素読する合間に廊下や縁側の拭き掃除仕事を課せられた。この伯母宅を2年で引き揚げ、今度(1863年)は母方の実家へ移され、3年ほど儒学を学ぶ。顧(かえり)みるに彼は5歳から13歳まで親戚に預けられて成長し、親元で甘やかされて過ごすというごく当たり前の幼少期の体験をさせてもらえなかったのである。
13歳(1866年)になった彼は、3年過ごした母方の実家から自分の生家・小国村北里を素通りして熊本に出る。
熊本では儒学で医学者の田中司馬(しば)の門弟になったが、あらたに 15歳(1868年) 歳で細川藩儒者・栃原助之進(とちはらすけのしん)に入門する。いずれも儒学より武芸中心の日々ではあったが、武道を好む彼は大いに満足であった。この1868年は年号では明治元年、明治維新の年である。大転換の時代を迎え、15歳の彼は仲間――藩士の子弟や郷士(ごうし) 近隣の青少年たちと新しい祖国の将来、日本の行く末を熱(あつ)く語るのであった。実のところ彼が渇望(かつぼう)する人間像は「軍人」或いは「政治家」であり、いまだに医学に対する関心と興味は全く持ちあわせてはいなかった。時に1869年(明治2)春、16歳の彼は細川藩の藩校「時習館(じしゅうかん)」に入寮の運びとなったが、残念ながら翌年1870年に廃藩置県(はいはんちけん)のあおりで、この時習館も閉校の憂(う)き目(め)にあう。彼は退寮(たいりょう)を余儀なくされ途方に暮れるが、戻る所は実家のみ。しかし、今回は母が助け舟を出してくれた。小国郷(おぐにごう)の郡代・安田退三(たいぞう)邸の書生として住み込むことになったのだ。安田はなかなかの人物で北里の人となりを見きわめた上で彼に「政治家ではなく医学の道を進んでみては如何かな」と提案した。北里は熟考の末、両親ともども案の受け入れを決心した。
いよいよ北里の医学道が発進する、18歳の彼は1871年(明治4)2月に熊本城の側に位置する「古城(ふるしろ)医学校」(医学所と病院)に入学した。この医学校には 昨年(1870年)招聘(しょうへい) した御雇(おやと)い外人医師・マンスフェルト(1832年〜1912年、オランダ人・満斯歇児(マンスフェルト)篤)が在任していた。彼が講義する科目は ◦解剖学 ◦組織学 ◦顕微鏡について ◦生理学 ◦内科 ◦外科 ◦物理と多岐に渡った。マンスフェルトは北里が学業とオランダ語にすぐ優(すぐ)れていたことから彼を助教として自分の講義の通訳を任せ、時間の許す限り自分の西洋的知識を彼に分け与えた、そして在任期限の1884年(明治17)7月に4年間の契約が終了して古城医学校(のちの熊本大学)を去っていった。北里31歳。
―― 続く――
(京都医学史研究会 葉山 美知子)