京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その60―

⃝明治・大正の医療
 その27 北里柴三郎 その2
 北里の熊本古城(ふるしろ)医学校時代(1871(明治4)年2月~1874(明治5)年7月)在学期間は3年であったが、御抱(おかか)え外人招聘(しょうへい)講師のオランダ人医師・マンスフェルトは講義がドイツ語であったから、語学の得意な北里が和訳をして仲間に伝えていた。それでマンスフェルトが医学校を去る7月まで5ヶ月間熊本に留(とど)まっていたのである。そのマンス(以下略)は熊本を去って中国上海に赴くが、1876年に医師・衛生行政家「長与専斎(ながよせんさい)」(1836~1902)の再度の招きで再来日する。マンスは京都府療病院で1年ほど診療した後、1877年大阪病院に移り1879年3月に辞任、7月に母国オランダに帰国した。(前号でマンスが1884年に熊本を去ったと誤って記述したが1874年です、お詫びして訂正します。)
 マンスが熊本を去った後の1874年7月に北里も医学校を退学して、今後の進路相談のため、ひとまず実家の阿蘇郡小国村に戻った。1871(明治4)年2月入学以来、3年余りの熊本医学校(旧古城医学校)時代であった。
 いよいよ次の step、上京。しかし、実家は総庄屋だったとはいえ、維新後の今は貧乏で北里は4男5女の総領である。弟妹の面倒をみるどころか自分の上級学校進学の道など叶えられそうもなかった。それでも北里はふつふつと沸(わ)きあがる向学心抑(おさ)え難(がた)く、「東京医学校」をめざし故郷をあとに東へ向かった、1874年7月。
 熊本から東へ大分(おおいた)に抜け、大分港から瀬戸内海を大阪港に向かい、大阪に上陸した。ここでは職種を厭(いと)わず稼(かせ)ぎまくって東京での生活費に備えた、そして東京着、1874年9月。北里21歳。(他説に熊本から西へ長崎に出て長崎港から海路、陸路を経て東京へという説もあり)
 東京では同郷の先輩知名士(ちめいし)・山田武甫(たけとし)(1832~1893)の肝煎(きもい)りで本郷竹町の借家に住み、猛勉に猛勉を重ね、1874年、「第一大学区医学校」から校名変更した「東京医学校」に入学することになる。
 しかし、ここで問題発生!
 維新後の明治新政府は、近代国家に脱皮しようと先進国に倣(なら)った制度を次々に制定した。「医制」もその一つで1874年(明治7)8月に施行され、医療と医学教育に関する76条から成る規則である。北里の問題とは第13条の「医学校ハ予科三年本科五年ヲ以(もっ)テ学課ノ満期ト定ム 予科入学ハ、十四歳以上十八歳以下ニシテ…略…」であり、21歳の北里はそもそも受験資格すらないことになる。但し救済措置(そち)として「当分二拾歳以下」であれば19歳20歳の学生も受験可能とするが、既に北里は満21歳、受験時(1875)には数(かぞ)え年では23歳である。無理無理 絶対無理絶望の北里であったが、そこは海千山千智謀湧(ちぼうわ)くが如しの山田武甫、奇策をひねり出した。即ち、年生詐称(さしょう)である。北里の出生日、「嘉永(かえい)五年十二月二十日」(1853.1.29)を4年後(あと)にずらして「安政三年十二月二十日」(1857.1.15)生まれとして出願書類を提出した。以後、北里の公式文書は終生「安政三年」で通している。余分なことではあるが、森鷗外は逆に年齢を2歳上乗(うわの)せして既述した「第一大学区医学校」予科に満11歳(数え年12歳)で入学を果たしている。

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2024年5月15日号TOP