2024年10月15日号
⃝明治・大正の医療 その32
北里柴三郎 その7
前号は、艦船・初代「龍驤(りゅうじょう)」がらみで、その「龍驤」を熊本藩主・細川韶邦(よしくに)(1835~1876)に斡旋した人物が長崎在住の英国スコットランド出身のトーマス・グラバー(1838~1911)であり、彼は淡路屋(あわじや)ツルと結婚して長崎港を一望に見渡せるグラバー園の一角に、1863年、接客及び居住用に「グラバー邸」を建てている。
話がまたもや北里から脇道に逸(そ)れるが、グラバー邸にまつわる物語は長崎と言わず九州の人間なら誰もが知っている。即ち、プッチーニ作曲・オペラ「蝶々夫人(伊:Madama Butterfly)」のアメリカ海軍士官・ピンカートンと没落藩士の娘で15歳の芸者・蝶々の悲恋物語の舞台がこのグラバー邸である。
オペラは三幕もので初演は1904年(明治37)2月17日、イタリア・ミラノで公演された。このオペラの台本を書いたのはイタリア人のオペラ台本作家・ルイージ・イッリカ(Luigi IlLica 1857~1919)で「トスカ」(ローマ舞台)、「ラ・ボエーム」(パリ舞台)、「トゥーランドット」(北京舞台)などの作品があり、「蝶々夫人」の舞台は日本である。
このオペラは、アメリカ・フィラデルフィア在住の弁護士かつ小説家のジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long 1861~1927)の短編小説『MADAME BUTTERFLY』を戯曲化したものである。その発端は、ロングの姉・サラ・ジェーン・コレルが宣教師の妻として日本に赴任した時期に( 1891~1897 )、彼女が小耳に挟(はさ)んだ実話をもとに1898年(明治31)ロングが「マダム・バタフライ」と題名をつけて短編小説に仕立てたことによる。アメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが、この短編をもとに1900年(明治33)、三幕ものの戯曲にしてロンドンで上演した。その初日の4月28日、作曲家・プッチーニ(1858~1924)は観劇し終わったその足でベラスコに「マダム・バタフライ」のオペラ化を申し入れた。1903年(明治36)に小説「蝶々夫人」の単行本も出版され、大いに人気を博した。その翌年、前述の如くミラノ・スカラ座でオペラ「蝶々夫人」の初演を果たした。この初演には、当時の駐イタリア特命全権公使・大山鋼介(こうすけ)の妻・久子が深く関わっている。久子はプッチーニと親交があり、彼に日本の風景や人情を事細かに伝えたので、未(いま)だ見ぬ遥(はる)か遠い異国・日本の描写の表現に多大な貢献を果たしたと思われる。但し、この2月17日の初演は上演時間が長く、その上、西洋人に馴染(なじ)みの少ない国の話とあって歴史的大失敗とメディアに叩かれ、17日一夜限りの公演になってしまった。しかし、プッチーニはこの屈辱的失敗をものともせず、捲土重来(けんどじゅうらい)、3ヶ月後の5月28日、ミラノから西へ150km離れたブレシアのグランデ劇場で大成功を収めたのである。
オペラでの蝶々夫人は、アメリカに去ったピンカートンを待ち続け、戻ってきた彼の傍(かたわ)らにはアメリカ人の妻が寄り添っているのを目(ま)の当たりにすると、元藩士の父が遺(のこ)した「名誉を持って死ぬ」とばかりに自害して果てた。
しかし、実際のグラバー邸の主人・トーマス・グラバーと妻・淡路屋ツルは生涯を添い遂げ、東京に出て事業に成功し、二人の墓は東京にあるが、長崎のグラバー家墓地にも立派な墓が二基仲良く並んでいる。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)