2024年9月1日号
⃝明治・大正の医療
その30 北里柴三郎 その5
「組織学」の科目でマンス(マンスフェルト)は教室に顕微鏡を持ち込んで北里に覗(のぞ)かせた。顕微鏡は既に18世紀半ば、1750年頃、オランダの貿易商から日本に輸入されていたが、それから30年後、1781(天明元)年には小林規右衛門(のりえもん)が大阪で木製顕微鏡を製作している。また1833年(天保4)蘭学・博物学者・宇田川榕庵(うだがわようあん)(1798~1846)がシーボルト(1796~1866)から贈られた顕微鏡で植物を観察して図入り植物学入門書「植学啓原(しょくがくけいげん)」を著述した(異聞:オランダから輸入されたコーヒー豆Koffieカッフィーを「珈琲」と当て字した人物でもある)。
明治維新を経て近代化をめざす日本は、医学・科学の発展に貢献する顕微鏡を盛んに輸入しているが、明治初期の1871年に九州熊本で顕微鏡を覗いたことは、北里にとって貴重な体験であったに違いない。そこには標本用の動物細胞がくっきりと写し出されていたのである。裸眼で如何に目を凝(こ)らそうとも全く不可視な細胞がである、北里は驚愕(きょうがく)した!興奮した!そして感嘆の声をあげた。実のところ、北里は医学校に進学したものの医学一筋に邁進(まいしん)出来なかった。卒業後は、患者を診察・治療して快癒(かいゆ)させることが責務であると医学・医療を狭義に理解していたのである。いま、顕微鏡を覗いて目に飛び込んできたものは、プレパラートに挟(はさ)まれた死滅した細胞であったが、北里にはその細胞が生き生きと蠢(うごめ)いているように思えた……このささやかな体験が医学への関心につながっていくことになる。マンスはまんまと北里を医学の道に導くことに成功したのである。
さて、翌年1872年(明治5)、19歳の明治天皇は九州・西国巡幸(じゅんこう)の旅に出た。西郷隆盛(1828~1877)、東郷平八郎(1848~1934)を供に6月28日、東京品川沖から軍艦「龍驤(りゅうじょう)」に乗艦、途中、三重県鳥羽で下艦して7月1日伊勢神宮を御参拝後、乗艦して大阪へ、そこから京都に向かい、東山泉涌寺(せんにゅうじ)の孝明天皇(1831~1867)陵に御参り、その後、乗艦して瀬戸内海、下関を通過して7月19日、長崎に到着した。22日は長崎から熊本入り、熊本城・鎮西鎮台(ちんぜいちんだい)、熊本医学校を観閲(かんえつ)なされた。この巡幸は地方の視察を名目としていたが、その最大目的は新政府の重鎮ながら厄介な鹿児島の島津久光(1817~1887)を口説(くど)き慰撫(いぶ)して東京に出向いてもらうことにあった。それゆえ日程は、7月22日熊本三角港着、25日出艦、27日鹿児島着後は10日間の長滞在である。8月7日には香川・丸亀着、8月15日横浜港に戻り、港に隣接している駅から開通してはいない汽車に試乗して東京新橋駅着、皇居へ還幸した。
上記の巡幸で北里が天皇に拝謁したのは7月24日、熊本においてである。当初、拝謁するのは政府が招聘(しょうへい)した御雇い外国人医師マンスフェルトに決まっていたのだが、オランダ人の彼は「蘭語での対応は困難」とばかりに、北里に天皇の御下問(ごかもん)の奉答(ほうとう)役を譲る拳に出たのである。
天皇・祐宮(さちのみや)・睦仁(1852.11.3生まれ)は弱冠19歳、北里は古城(ふるしろ)医学校・学生で同じく19歳、2人は熊本城内または城の傍(かたわ)らの医学校で角力(すもう)を取って愉(たの)しんだという。
―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)