2025年2月1日号
⃝明治・大正の医療 その 35
北里柴三郎 その 10
北里(1853 ~ 1931)は、1883 年(明治 16)10月27 日、東京医学校を卒業した。本来は4月だが、この年、東京はコレラの流行騒ぎがあり医学の修了証書は4月に授与されたが、終了式は 10 月に延期されたのである。北里 30 歳。
すでに北里は去る4月3日、松尾臣善(しげよし)(大蔵省官員、のちの6代日本銀行総裁)の次女・乕(トラ・1867 ~ 1926)と結婚した所帯持ちであった。北里は熱烈にドイツ留学を望んでいたが、卒業時の成績が26人中8番では留学は土台無理な話。次善の策として7月に行政機関・内務省衛生局に入省した。それは内務省内で官員海外派遣制度の道があると聞き及んでいたからである。
結局、望み通り、1886年(明治19)1月、ドイツに留学が叶うことになるが、それまでの2年余りの期間を、北里は日本の医事衛生事情の調査に乗り出した。当時の衛生局の局長は長与専斎(ながよせんさい)(1838 ~ 1902)である。
父は長与忠庵(ちゅうあん)、長崎・大村藩藩主・純熙(すみひろ)及び次の藩主・楠本正隆の侍医であった。長与は大阪の緒方洪庵(1810~1863)の私塾・適々斎塾(てきてきさいじゅく)(適塾)に入門し、1860年(万延元年)長崎の医学伝習所(長崎大学医学部前身)に遊学した。伝習所には御雇いオランダ人医師・ポンペ(1829~1908)のもとで蘭医学を学んだ。1871年(明治4)、長与は上京、文部省に所属してその年の11月12日から1873(明治6)9月13日まで「岩倉具視遣欧(ともみけんおう)使節団」に随行、西欧米12ヶ国(イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オランダ・デンマーク・スウェーデン・ロシア・イタリア・オーストリア・スイス・アメリカ)を歴訪した。団員は木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・新島襄などで、他に留学生約50人程(女子5人を含む)であった。長与の任務は欧米各国の医学教育を視察調査することで、1873年の帰国後は文部省医務局長を務め、1875年から1894年まで19年間の長きに亘(わた)って内務省衛生局・初代衛生局局長を務めた人物である。その内務省衛生局には北里の直属の上司として準御用掛(じゅんごようがかり)の後藤新平(1857~1929)が在籍、北里は後藤の配下(部下)になる。典型的な肥後もっこすで利(き)かん気な鼻っ柱の強い北里には、気障(きざ)な自慢屋の後藤が目障(めざわ)りで苦手(にがて)であった、後藤は北里より4歳年下、かつキャリアも北里は東京医学校(東京帝国大学医学部)卒の医学士である。一方、後藤は福島県医師養成学校の須賀川医学校あがりの医者で格下である。それにもかかわらず、奉給(給料)は北里の70円に対して後藤は4割も多い100円であることも腹立たしい限りの存在であった。北里の衛生局入りは確かに自ら望んだ部署ではあったし、北里と後藤二人の上司は長与専斎である。その長与の後藤評は「ああ見えてもなかなかの人物で今の日本は彼のような動きの軽い人材を求めている」と肯定評価、そもそも1882年(明治15)当時、愛知医学校の校長をしていた弱冠25歳の後藤を見込んで長与が内務省に引き抜いたという経緯(いきさつ)がある。後藤は見事に長与の期待に応(こた)えて、衛生局を振り出しに ◦台湾民政局長 ◦初代満州鉄道総裁 ◦鉄道院総裁 ◦東京市長などの重職を担(にな)い、正二位勲一等伯爵の爵位を授与された人物であった。
―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)