2023年2月15日号
⃝近代明治中期の医療(6)
野口英世 その 13
デンマークと英世 ①
英世(1876 〜 1928)が受け入れ先も定まらないままに 1900 年 12 月末に渡米、1901 年1月・Phila のペンシルベニア大学教授フレキスナー博士(1863 〜 1946)のもとに転がり込んで2年、博士から与えられた課題「蛇毒の溶血作用の解析(かいせき)」を昼夜兼行(けんこう)でおこなっていた。今や英世はPenn 大学の正式助手、そして1903 年9月・博士が新設の N・Y ロックフェラー医学研究所・所長に就任することになり、子飼いの英世を連れて行くことに決めたが肩書が物足りない。そこで博士は彼をヨーロッパに留学させる、行き先は「医学微生物研究所・血清治療部門(SSI)、デンマークの首都コペンハーゲン、アマー半島にあり、血清学では世界に名だたる若き Thorwald Madsen(トーバル・マドセン)博士が実質的所長を務めていた。1903 年 10 月 15 日、英世はNY 港を出航、パリからハンブルグを経てコペンハーゲンに到着、デンマークは小国(面積は世界で 130 位、日本は 61 位)であり、かつ大小の島々が 400 もあり、コペンハーゲンはシェラン島とアマー半島にまたがって位置する。「その町は、各家の周囲に四季折々の花が咲き乱れ、澄み渡る空には教会堂の尖塔(せんとう)が高く聳(そび)えている、町の人の気風も至極(しごく)温和である……のんびりした静穏なこの町では NY での物質上の利益や名誉心などを全く忘れて落ち着いて研究に熱中することが出来た」と記し、「未(いま)だ味わったことがない自由にして和やか、このような幸福な機会が再び来るだろうかとさえ思った」とデンマークの暮らしを満喫(まんきつ)したのであった。
この SSI の留学は、1年後にロックフェラー研に移籍する際の肩書に箔を付けるためであったから、ことさらの実務は課せられなかったが、それでも英世は Penn 時代以降、取り組んでいる蛇毒の血清で有効かつ安全な抗毒素を製造することを目論(もくろ)んでいた。その血清完成間近と思われたところで 1904 年2月4日(8日説あり)、日本・ロシア間に戦争が勃発したのである。世にいう日露戦争であるが、英世はヨーロッパの新聞が日本を見下(みくだ)し、黄色人種を蔑視(べっし)し、Yellow Monkey と呼ぶに至って猛烈な反撥心(はんぱつしん)が湧き上った。アメリカに暮らしてもデンマークに留学しても、英世はやはり「自分は日本人」だと痛感したのであった。
しかし、英世のデンマーク留学は生涯の記憶に残る。
SSI の所長マドセンは、デンマーク人で 33 歳の若さである、27 歳の英世とはわずか6歳の違いであるが、英世はマドセンを師と仰(あお)いで尊敬し、終生その暖かい関係は失われなかった。マドセンはジフテリアの免疫血清と抗毒素を開発し、その製造に躍起となっていた。英世も負けじとばかりに蛇毒の抗毒素製造をめざすのであった。
英世が後にマドセンに宛(あ)てた手紙(1912年5月14日)のくだりに「アマー橋や兵舎を心行(こころゆ)くまで楽しく歩き回り美しい薔薇苑(ばらえん)に酔いしれる間もなく、実験冷凍室に駆けおり、馬小屋へ走っていったものだ」などと言葉を尽くしてデンマーク時代の1年を楽しんだ様子が伺われるが、そこには或る娘の存在があった。英世はそのデンマーク娘に恋をしたのである。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)