京都医学史研究会  医学史コーナー 醫 の 歴 史 ― 医師と医学 その12 ―

安土桃山時代の医療と曲直瀬道三

  道三(1507 〜1594)が16 世紀のほぼ100 年を生きた人物であると既述してきましたが、その1500 年代は群雄割拠の戦国乱世、下剋上の時代でした。足利将軍家の室町時代が終焉を迎え、中世から近世へ移行する世紀であり、世界に目を転じると大航海時代に相当し、日本も南蛮文化に触発されました。16 世紀とは、政治経済文化いかなる分野においても、うねりの激しい見通しのききにくい時代であったと思われます。その時代に生まれあわせたのが曲直瀬道三です。そして道三自身の生涯も起伏に富んでいます。そもそも道三は姓がつまびらかではなく、父親は滋賀県守山市勝部町、又は長浜市堀部町出身らしく、勝部氏説と堀部氏説の二説があります。江戸幕府公認の家系譜『寛政重修諸家譜』(1812 年成立)では、道三は「堀部左門親眞」の息子で名は正盛としています。その続きには「そののち自ら家號を曲直瀬と称す」と道三家の自己申告がそのまま記載され、現在に至ります。

  道三は誕生直後に母を亡くし、父も時をおかず死去、叔母に養育され、都の相国寺に預けられ(10 歳)、その頭脳明晰さを見込まれて下野の足利学校に留学します(22 歳)。25 歳で医学僧、導道に出会い、田村三喜に師事、いよいよ医学の道に邁進、李朱医学を学び医術の奥義を究めて「察証弁治」法を掲げました。道三が都に戻ったのは天文14 年(1545)、39 歳になっていました。

  すでに道三は関東で名医の誉れが高かったとみえ、都でもすぐさまその医術力は評価され、足利将軍家や有力武将の治療にあたります。宣教師ルイス・フロイス(1532 〜1597)は「道三の医術の腕は日本第一位で政治宗教文学に精通し、医学校(啓迪院)を運営する経営手腕もあり、滑舌よく雄弁家であり、耳は少し遠いがすこぶる健康体である」と彼の著書で絶賛しています(時に道三は79 歳)。そして道三は老宣教師フィゲイレドを治療したことで懇意になり、自らの意思でキリシタンに改宗したとフロイスは記述しています(この改宗説は公認されていない)。ともあれ、道三は関東遊学時代は僧籍にあって宗教事情に明るく、医術に至っては治療の処方や用薬の効能を悉く究めた人物ですから、帰京後はどの階層の人々にも「あつく遇され」ています。それでは、一代にして医学界のトップに躍り出た道三に欠けているものは何かと言えば、やはり医家としての出自・氏素性の不足だったのではないでしょうか。見渡せば半井、竹田、上池院、盛方院、施薬院といった代々医家を継承する名門の子弟医師ばかり、彼らに伍して道三が認知されるには、彼らが伝統医術にとらわれ旧態依然の家伝秘法をひきずっている間に、新規の李朱医学を自家薬籠中の物とし、南蛮医学の動向をキャッチし、優秀な門人育成に励むことだったと思われます。

  信長・秀吉が治めた安土桃山時代という50 年に満たない16 世紀後半は、道三が関東遊学から都に戻った後の50 年に重なります。

  この極めて鮮烈にしてヌーベルバーグ(new wave)の風が吹き抜けた「安土桃山時代」というジグソーパズルは、信長・秀吉を軸に置いた画面であり最後のピースは「曲直瀬道三」、道三を嵌込んで完成という気がします。

(京都医学史研究会 葉山美知子)

お詫び: 前号で山科言継の生没年は(1507〜1579年)
73 歳でした、訂正いたします。 

2020年5月15日号TOP