⃝明治中期の医療(9)
野口英世 その 15
黄熱に斃(たお)れる英世
- 1923年11月:英世 47 歳 ブラジル・バイアに出向、郊外のパルメイラで高熱発疹の6歳少女からレプトスピラ・イクテロイデス検出(後に黄熱病原体ではなく、ワイル氏病原体と判明)
- 1924年3月:ブラジルでの黄熱調査研究を3月で終了、帰国
- 〃 7月:ジャマイカ・キングストンにて「熱帯病学国際会議」(7月21日~31日)出席、会議でアグロモンテ博士から英世の黄熱病原体発見を疑問視、糾弾され英世窮地(きゅうち)に陥る
- 〃 8月:会議終了後、鞭毛虫調査のためのホンジュラスに赴く
- 〃 冬:黄熱批判から距離を置き、自宅 (N.Y) でオロヤ熱・ロッキー山紅斑熱(こうはんねつ)・鞭毛虫の研究に励みつつ、眼病トラコーマに興味を持つ
- 1925年:黄熱研究を終了、オロヤ熱病解明に全力を注ぎ、ペルー疣(いぼ)も同一病原体から発する、その媒介者は蚊・フレボトムス
なお、この業績と1913年に梅毒患者の脳内から梅毒スピロヘータを検出した業績は特に重要である - 〃 5月:ロックフェラー財団国際保健局は黄熱病委員会を組織、本部はナイジェリア・ラゴス、出張所は黄金海岸(現・ガーナ)・アクラに設置
- 1926年:英世説の黄熱病原体・イクテロイデスをラゴスとアクラの両研究所とも見つけられず、成果なし。英世説に従い、大量の黄熱ワクチンを製造し無料配布してきたロックフェラー財団は困惑(こんわく)、英世糖尿病で健康に難。
- 1927年8月:英世自ら自説に迷いが生じ、機会があればアフリカ西海岸の黄熱病地域に調査に行きたい、現地(アクラ)に赴き自分の手足を駆使して結着をつけようと決心する9月19日、アクラのイギリス医学研究所のストークス博士が黄熱罹患で死去。
- 〃 10月22日:英世51歳、健康回復、午前11時 NY 港を出航、10月31日イギリスリバプール着、11月2日リバプール港発リスボン、カサブランカ、ダカールを経由
- 〃 11月17日:アクラ着、財団派遣の白人研究員が20名ほど居住、マハフィ博士、ヤング博士が英世の研究環境を配慮
- 〃 12月5日:サルや蚊で実験開始
- 〃 12月26日:アクラの奥地・ウエンチ村へ黄熱患者の調査と資料収集、27日アクラへ戻る
- 〃 12月31日:疲労で体調悪い
- 1928年1月1日:悪寒と嘔吐、軽症の黄熱と自己診断する(黄熱の潜伏期間は3~6日)
- 〃 1月2日:朝、入院 ~9日退院
- 〃 1月中旬:動物実験用(400匹以上必要)サルの入手困難で研究捗(はかど)らず
- 〃 1月下旬~2月初旬:従来の英世説を自ら覆(くつがえ)し、改めて「イクテロイデス」でも「イクテロヘモラギエ」でもなく、瀘過器をもすり抜けて光学顕微鏡では見ることが出来ない病原微生物が、黄熱病の元凶と看破する
―以下 次号―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)