2023年7月15日号
⃝大正・昭和の医療
野口英世 その17 英世の死と黄熱病
英世は 1928(昭和3)年5月21日、西アフリカ(現ガーナ共和国)・アクラで黄熱病(Yellow Fever)に斃(たお)れた。5月23日アクラのアッシャータウン教会で葬儀を終えた後、200ポンド (約91kg)の鉛を詰めた棺(ひつぎ)に遺体を安置し、直ちに N・Y 行きの「ウエスト・ケーパン号」に積み込みアクラ港を出航した。
HIDEO NOGUCHI
BORN IN INAWASHIRO JAPAN NOVEMBER(旧暦月日)24 1876
DIED ON THE GOLD COAST AFRICA MAY 21 1928
MEMBER OF THE
ROCKEFELLER INSTITUTE FOR MEDICAL RESERCH
THROUGH DEVOTION TO SCIENCE
HE LIVED AND DIED FOR HUMANITY
さて、アフリカで黄熱病に斃(たお)れた英世だが、1876年11月9日に福島県耶麻(やま)郡翁(おきな)島村三城潟(さんじょうがた)で生まれた。母・野口シカ、父は入り婿(いりむこ)で猪苗代小平潟(こびらがた)の小會山惣平(こびやまそうへい)の長男佐代助(さよすけ)である。極貧の野口家にありながら、佐代助は酒びたりのアル中で家に寄りつかず、“賭博打(ばくちうち)の松橋の五郎”の下っ端(したっぱ)子分という体(てい)たらく。一方、母シカは働き者で賢(かしこ)く負けず嫌いの頑張り屋ではあったが、一向に家運は上向(うわむ)かず、英世の幼年時代は陰気でもの哀しく屈辱感が漂う。生後1歳半で囲炉裏(いろり)にはまって左腕を焼け焦(こ)がし“手(て)ん棒”と悪童どもに囃(はや)されいじめられ、生涯この手ん棒の苦から逃れられなかった。実際、一家は赤貧(せきひん)百姓であり、英世も尋常小学校に通うことさえ儘(まま)ならない窮状にあったが、英世の頭脳の明晰さは頭抜(ずぬ)けていた。そこに英世の強運が生まれる、なぜか人生の節目節目で恩人が現れ英世を“世界の英世”に導いていくのである。
第一の恩人は、小学校教師・小林榮(さかえ)である。猪苗代尋常小学校卒業止まりになるところを高等小学校進学を是非にと勧め、周辺の友人知人を巻き込んで実現させた。またその頃、アメリカ帰りの医師で大いに英世の悩みを軽減してくれたのはドクトル渡部鼎(1858~1937かなえ)である。渡部は明治25年(1892)10月、英世の摺古木棒(すりこぎぼう)のような左手を手術した、即ち手丸ごと癒(ゆ)着している固まりから指を1本づつ切り離して添え木をあてがい包帯で巻いたのである。英世14歳11ヶ月、さすがにまだまだ「手」とは言い難い形状であったが、“手ん棒”ではなかった。その上翌(1893)年、渡部が院長を務める会津若松のこの会陽(かいよう)医院に英世を学僕として雇い入れてくれたのである、英世17歳。
―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)