2024年2月15日号
⃝明治・大正の医療
その24 英世追慕⑥
英世の51年間の生涯(1876.11.9〜1928 .5.21)を俯瞰すると、実にその振り幅が大きい。
東北・福島猪苗代の三城潟に生まれた。あまりの賢(かしこ)さゆえに極貧ながら近辺の篤志家たちが英世を高等小学校、さらに尋常中学校へ進学させる。なぜだか人生の節目節目で英世を支援する人物が登場するのである。さすがに帝国大学医学部への進学は夢のまた夢、私立医学塾・済生学舎に籍を置き、医術開業試験前期(1896年(20才)10月)、後期(1897年(21才)10月)を突破して医師免許を手にする。しかし、英世が勤務した高山歯科医学院、順天堂医院、伝染病研究所はいずれも帝大出身の医師たちが君臨、そこに居続けても英世の未来はない。上昇志向の極めて強い野心家の英世はつくづく日本医学界に幻滅してしまう。折りも折り、1899(明治32)年4月 英世が勤める伝染病研究所にアメリカ政府から派遣された一団がフィリピンの医学事情を視察する途上で日本の伝研に立ち寄ったのである。彼らの英語を通訳する係りに英世が駆り出された(日本人の医師は独語は得意)。千載一遇のチャンス、英世はジョンズポプキンス大学のサイモン・フレキスナー医学博士の通訳についた、彼は通訳もそこそこに博士にアメリカ留学を熱望していると訴えた。結局、博士の返事を待たずして1900(明治33)年12月末、手提げ鞄(かばん)一つぶら下げて片道切符を握りしめ渡米した、今から124年前のことである。
英世は博士を訪ねてフィラデルフィアに向かった。ドアを開けた博士は見覚えのない異国の若者に驚愕したが、日本へ強制送還することなく、あまつさえ私設助手に雇い毒蛇の研究課題を与えた。
英世のアメリカでの生活が始まった(24才)。そして英世を救ってくれた博士のもとを最期まで離れることなく、終生、博士に忠誠を尽くした。1903(明治36)年、デンマークの国立血清研究所で1年間の留学を経(へ)て、翌年1904年10月博士が新設されたNYのロックフェラー医学研究所の所長に招聘されたのを機に、英世もロック医研に移籍、NY暮らしが始まった。
英世は水を得た魚の如く、細菌研究に没頭する。彼が生涯をかけて取り組むことになったテーマは「梅毒」と「黄熱病」の病原体を発見し、純粋培養に成功し血清療法を確立してワクチンを製造することであった。
1911(明治44年)年10月、英世は「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功した」と発表、世界中を驚嘆させた。事実ならノーベル賞授賞レベルであった。しかし、後の誰も純粋培養に成功せず、現在ではこの案件は否定されている。唯一、英世の医学的功績は「梅毒既応症患者の脊髄神経と脳内は梅毒スピロヘータに犯されて脊髄癆(せきずいろう)及び麻痺(まひ)性痴呆(ちほう)を発病する」という研究である。
英世の肩書は「細菌学者」であるが、19世紀末から20世紀初頭にかけて「細菌学」は大いに発展し、・結核菌 ・赤痢菌 ・破傷風菌 ・ジフテリア菌など光学顕微鏡でほとんど発見され尽くし、英世の出る幕はなかった。
さて、英世自身、己の生涯は満足のいくものであっただろうか、1928(昭和3)年5月21日午前11時50分、日本でもアメリカでもなく、アフリカ・ガーナのアクラで黄熱病に斃(たお)れる。最期の言葉は「どうしてだか わからない」という英語だった。
―了―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)