京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その57―

⃝明治・大正の医療
 その25 北里柴三郎と野口英世
 前号まで24回にわたって野口英世の生涯を述べてきた。今号から「北里柴三郎」について記していきたいと思います。
 まずは「英世(1876~1931)と北里(1853~1931)の関わり」を以下に少々記すことにする。
 英世の出生地は、福島・会津若松・猪苗代三城潟(さんじょうがた)、片や北里は熊本・肥後阿蘇北里村(きたさとむら)であり、いずれも日本の片田舎の生まれである。
 英世の幼少期は、食うや食わずの極貧百姓のどん底暮らしの日々であった。一方、北里は裕福とは言えないが、総庄屋の長男に生まれ、かつ母親は武士の家柄であったから将来を見据えて大事に育てられた。
 学歴は、英世は医術免許取得のための医師養成所機関「済生学舎(さいせいがくしゃ)」あがりで前期・後期の医術試験を受験・合格して免許を取得した、1897年10月(明治30)、英世21歳であった。
 北里は5歳から北里村や熊本で英才教育を受け、古城(ふるしろ)医学所・熊本医学校を苦学の末、卒業すると恩師オランダ人医師・マンスフェルトから「田舎村から熊本へ、熊本から東京へ、そしてドイツへ飛翔せよ」と激励され鼓舞されて「東京医学校」(後の東京帝国大学医学部)に進学、卒業と同時に医師免許が授与された(即ち大学卒業者は免許資格試験は免除の特権あり)、時は1883年7月(明治16)、北里30歳であった。
 免許を取得した2人はそれぞれの理由から海外留学をめざす。英世は済生学舎出身の経歴ではせいぜい村医者か町医者どまりと予測をつけ、無謀にも後先考えず身元引受人の弁を待たずサンフランシスコ行きの船でアメリカに飛びこむ、19世紀末、ドイツ医学全盛で帝大出の医学者はアメリカ医学など歯牙にも掛けず、アメリカは穴場であったのだ。
 北里は、というと北里は国費留学生として正統派・ドイツベルリンに向かい、ベルリン大学衛生学教室に Heinrich Hermann Robert Koch――コッホ(1843~1910)を訪ね、紆余曲折(うよきょくせつ)はあったが、1886年1月(明治32)コッホに師事することが叶った、北里33歳。
 このように2人の生涯は、かなり対照的だが、この千年、日本人科学者としての知名度・人気度は野口英世が断突の1位を保っている。北里は、2位・湯川秀樹 3位・平賀源内 4位・杉田玄白 に次いで5位・北里柴三郎であった(2000年度版)。
 たまたまであるが、今年度2024年7月3日に発行される新千円札の肖像画は北里である、新札は20年ごとに発行されるので英世から北里へ肖像人物が変わることになる。この2人、浅からぬ因縁がある。英世は北里より20歳以上年下であるが、北里の高弟七人衆の一人である。7人の弟子を列挙すると 1北島多一(1870~1956) 2志賀潔(1870~1957) 3秦佐八郎(1873~1938) 4宮島幹之助(1872~1944) 5野口英世(1876~1931) 6高野六郎(1884~1960) 7金井章次(1888~1967)であろうか、この7人のうち、とりわけ ◦北島 ◦志賀 ◦秦 ◦宮島の4人は「北里の四天王」と呼ばれている。なお北里の高弟のうち秦(岡山大学)、英世(済生学舎)の2人を除いた5人は全員「東京帝国大学医学部」出身であった。

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2024年3月15日号TOP