京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その62―

⃝明治・大正の医療
 その29 北里柴三郎 その4
 医者になるつもりは全くなかった北里、
 軍人になりたかった北里、
 北里(1853〜1931)は物心ついた頃からガキ大将、遊びといえば近所の子を集めて日がな兵隊ごっこに明け暮れる日々であったから、「軍人」になりたいと切に願うのも当然の成り行きであった。しかし、両親は猛反対、総領の大事な跡とり息子が戦場で命を落としかねない軍人になるなど金輪際(こんりんざい)許せるものではなかった。北里はその説得に抗しきれず軍人志望は敢(あ)え無(な)く潰(つぶ)されてしまった。
 1869年12月(明治2)、16歳の北里は軍人志望は心の底に沈め、肥後の藩校「時習館(じしゅうかん)」(1754年開校の歴史を持つ)に入学するが、明治維新の大変革の一翼(いちよく)を担う廃藩置県令により藩校の時習館は閉校、北里たち学生も退校の憂(う)き目に遭う。とりあえず実家の小国(おぐに)北里村に戻るが、弟妹の多い(北里以下8人)北里家に無為徒食させる財力があるはずもなかった。或る人の骨折りで1870年(明治3)8月26日、小国郷の教師及び役所の見習いに採用され、出勤中は飯米支給という願ってもない辞令がおりた。「或る人」とは小国郷(おぐにごう)で行政を担当する「安田退三」(生没年不詳)であった。安田は元熊本藩士で、北里はこの安田邸に書生として半年ほど寄宿する。安田は北里の有能さを見抜き、前任者が退任した小国郷の「教導師」に抜擢(ばってき)する。小国の教導師とは、江戸時代から小国郷宮原(みやのはら)にあった郷校(藩校の下部組織)「筑紫舎(ちくししゃ)」の教員を指(さ)す。また安田は「大属小国詰所(だいぞくおぐにつめしょ)」の担当官(郡政大属)を兼ねていて、詰所とは元肥後藩領であった豊後久住(ぶんごくじゅう)と小国を管轄する出張所のことである。安田夫婦は共にキリスト教信者で、二人の慈愛あふれる暮らしぶりに薫陶(くんとう)を受けた北里は頑(かたく)なな軍人志望が揺(ゆ)らぎ、父惟信の勧(すす)めもあって1870年この年に設立された「西洋医学所」(古城(こしろ)医学校・熊本医学校・熊本大学医学部の前身)に進学することを決意、翌1871年(明治4)2月に18歳で入学した。医学所には生涯の恩人となるオランダ人軍医・マンスフェルト(1832〜1912、Constant George van Mansveldt)、政府が招聘(しょうへい)した御雇(おやと)い外国人医師が在任していた。入所当時の北里は医学への想いはイマイチであったが、授業は新鮮で◦解剖◦組織 ◦顕微鏡 ◦病理総論 ◦内科 ◦外科など全科目をマンスフェルト1人で担当した。彼はオランダ語で講義、かたわらの助教・教導が日本語に訳して学生に教授する方式であった。元々語学に堪能(たんのう)な北里が助教を務めるようになり、マンスはことらに北里の実力を認め、公私を問わず彼を支援し邸内に招(まね)き入れて自分が持つ知識や情報を惜しみなく伝授した。そして北里に訊ねた「医者になりたいのか? なるつもりはあるのか?」……その問いに北里は初めて心の内を打ちあけた ……「自分は生来、軍人か政治家になるつもりであったが周囲の許可が得られず、とりあえずの折衷(せっちゅう)案としてこの医学校に在籍している」……と吐露(とろ)した。
 そこで北里の性格を見抜いているマンスは、北里に人を殺せないから「軍人はダメ」、嘘をつけないから「政治家は無理」と一刀両断、「医者になれ」と諭(さと)され机上の顕微鏡を覗かせた。

―続く―
京都医学史研究会 葉山 美知子

2024年7月15日号TOP