2024年9月15日号
⃝明治・大正の医療
その31 北里柴三郎 その6
閑話休題 今号は前号に記述した大日本帝国海軍の軍艦「龍驤(りゅうじょう)」に関しての話しが中心になります。
1872年(明治5)6月28日、明治天皇(19歳)は東京品川沖から御召艦(おめしかん)、創設期の日本海軍の旗艦「龍驤」に乗艦して、初の西国巡幸を実施した。7月19日、長崎から22日に熊本入り、熊本での日程は熊本城、設置されて程ない鎮西鎮台(ちんぜいちんだい)、熊本医学校の観閲である。北里(19歳)は、医学校の学生であったが、医学全搬を講義する御雇いオランダ人医師・マンスフェルト(1832~1912)の蘭語を日本語に翻訳して仲間の学生に伝える補助役を務めていたため、マンスが天皇拝謁の栄誉にあずかる場に通訳者として駆り出され、天皇一行に同行することになったのである。
「龍驤」が熊本小島町(おしままち)に停泊したのは7月22日である。熊本湾は遠浅のため、港に接岸出来ず、小船に乗り換えて上陸する手はずになっていた。ところが手順通りに事が運ばずモタモタするうちに御一行の上陸が夜遅くになってしまった。この不手際に天皇を供奉(ぐぶ)している最側近の西郷隆盛(1828~1877)は、怒り心頭(しんとう)、怒髪天(どはつてん)を衝(つ)き、行在所(あんざいしょ)(熊本藩大参事・細川護久(もりひさ)邸)でふるまわれた熊本特産の選(え)りすぐりの大西瓜(すいか)を床に叩(たた)き割ったという、ウーム……。
筆者が抱く西郷像は、やはり1898年(明治31)に彫刻家・高村光雲の工房で造立された上野公園の薩摩犬ツン号(信頼しきった目で西郷を見上げている)を連れている堂々たる偉丈夫(いじょうぶ)の西郷である。実際、6尺豊かな大男であったが、像の高さ(身長)も3.7m、単(ひとえ)の着物を丈(たけ)短かに着流して憩(いこ)いの場の公園にとけ込んでいる。また西郷の犬好きは、つとに知られているが、人格的には毀誉褒貶相半(きよほうへんあいなか)ばする人物であったらしい。
ともかく、天皇・西郷たち一行は恙無(つつがな)く旅を進め、最終目的地である薩摩に到着した。ここでは島津家27代当主・島津斉興(なりおき)(1791~1859)を父に持ち、幕末の激動期に公武合体運動を勧め、幕政改革に奔走(ほんそう)する島津久光(1817~1887)邸に10日間ほど逗留した。
鹿児島湾に停泊した「龍驤」は、八代熊本藩主・細川韶邦(よしくに)(1835~1876)が、慶応元年(1865)にイギリス北東部の港湾町アバディーンの造船所に発注した木造鉄帯の装甲コルベット艦(帆船や蒸気船時代にあった艦船)である。購入価格は27万両、ほぼ40億円強というところ、藩財政は逼迫(ひっぱく)している、藩主・韶邦はこの大金をどこから捻出したのであろうか、しかも今回、天皇が巡幸した後、明治新政府にこの「龍驤」を進呈しているのである。
いずれにせよ、この英国製の「龍驤」を韶邦に斡旋(あっせん)したのは、スコットランド北部の漁村フレーザーバラ出身の武器商人、トーマス・ブレークグラバー(Thomas Blake Glover, 1838~1911)である。グラバーは、英国から商工事務員として21歳で香港に派遣されたが商才に長(た)けた彼は日本に目を付ける、日本特産のお茶・樟脳(しょうのう)・木材などを買い付け輸出し、東南アジア特産の香辛料・雑貨を輸入、瞬(またた)く間(ま)に大富豪になる。日本人妻・淡路屋ツルと結婚し、長崎の港を一望に収める「グラバー邸」が終(つい)の棲家(すみか)となった。
―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)