京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その66―

⃝明治・大正の医療 その33
 北里柴三郎 その8
 北里(1853~1931)は、武士の家柄であった母・貞(旧姓:加藤)の厳(きび)しい教育方針に則(のっと)り、5歳で寺子屋に学び、8歳(1861年春)~10歳(1863年春)まで父の姉夫婦(夫の橋本龍雲)に預けられて四書五経を諳(そら)んじ、実家を素通(すどお)りして母の里方である久留島(くるしま)藩(久留島氏は江戸時代は森藩・主家であり、明治維新後は華族の子爵の爵位を授かる家柄)・藩士、加藤海助方に3年間預けられ、13歳(1866)の北里は熊本に出て儒学者・田中司馬の私塾で漢学のみならず武芸にも打ちこんだ。元々、武士になりたかった北里なので、この2年間は満足で充実した2年間であった。15歳(1868)の春、熊本細川藩の御抱(おかか)え儒者・栃原助之進に入塾するが、9月(1868)には元号が「明治」に改まり明治時代が始まる。その翌年、1869年、12月に藩校・時習館に入寮するが、廃藩置県の制により時習館は閉校になる。この時点で北里は満16歳である。
 顧(かえ)りみれば、この10年、北里に安住の地はなかった。時代も江戸(将軍)時代から明治(天皇)時代へと大転換、士農工商の身分制度は廃止され、以前の公家・大名は「華族」、武士は「士族」、町人・百姓は「平民」として天皇及び皇族を除いた武士・農民・職人・商人の四民は皆等しく平等となった。しかし、北里は時代の波の変化どころか我が身の置く場所を決めかねていた。そこへ救いの神が現れる、元熊本藩士で北里の実家、小国郷(おぐにごう)で行政を担当している「安田退三」の目に留(と)まり、キリスト教信者であった夫妻宅の書生に雇われる。わずか半年であったが、夫妻の限りなく慈愛に満ちた暮らしぶりに深く感動し、これまで自身が掲(かか)げてきた軍人一択(いったく)を目指(めざ)す生き方に輝きを見出(みいだ)せなくなった。
 そして、北里は父親・惟信(これのぶ)(1828年4月23日(文政11年3月10日)~1902年(明治35年)6月28日)、母親・貞(てい)(1829年11月7日(文政12年10月11日)~1897年(明治30年)11月13日)の勧(すす)めもあり、医学の道に進むことを決心した。けれど本心は「長袖者流(ちょうしゅうしゃりゅう)にだけは、なりたくない」のである。長袖者とは、袂(たもと)の丈(たけ)の長い袖をゆらめかして着用している公家(くげ)や僧侶・薬師(くすし)(医者)などを言い、北里は何とも軟弱な男をイメージしてしまうのであった。
 しかし、小国村(おぐにむら)の実家の状況を冷静に考えると稼ぎの少ない父、年端(としは)のいかない弟妹たちの面倒をみるのは総領の自分であろうから、父母が望む医者に成(な)る可(べ)く熊本医学校を受験した。
 1871年(明治4)2月、18歳の北里は熊本医学校に入学するが、3年後に指導教官のオランダ人医師・マンス(マンスフェルト)(1832.2.28~1912.10.17)が京都府療病院に招聘(しょうへい)されて熊本を去ることになり、北里も同じく、1874年(明治7)7月、医学校を退学した。
 その年(1874)の9月、故郷熊本をあとにした21歳の北里の躍進がいよいよ始まる。まずはマンスの教え通りに東京に出て受験勉強、東京医学校をめざし、翌1875年(明治8)11月、北里22歳、入学を果(は)たす。なお2年後に医学校は「東京帝国大学医学部」が正式名称となる。在校中、4歳若く年齢詐称(さしょう)した事以外は極めて順調に予科3年・本科5年の課程を経て1883年(明治16)10月27日、満30歳で卒業した。

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

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