京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その67―

⃝明治・大正の医療 その34
 北里柴三郎 その9
 1883年(明治16)10月27日、北里は東京医学校を卒業した。130余名だった入学生のうち、卒業試験に合格し「医学士」の学位を授与されて晴れて卒業した者は入学時の20%、26人に過ぎなかった。
 現代では、一般に大学卒の称号は「学士」、大学院卒は「修士」、博士課程や博士後期課程の終了者には「博士号」の学位が与えられるが、明治16年当時の「学士」は非常に権威のある称号で、学位取得者はごく少数の精鋭かつ多方面に恵まれた子弟に限られていた。それゆえ、彼らの将来、生涯は保障されたも同然であった。
 東京医学校の「学位授与人名」は ◦法学士ノ分 ◦理学士ノ分 ◦醫学士ノ分 ◦文学史ノ分に分別されている。北里は「醫学士ノ分 醫学科」の8番目、「熊本縣平民 北里柴三郎」と掲載され、卒業成績順に1番は「兵庫縣士族 河本重次郎」、2番は「東京府平民 大谷周庵」、以下3番内田守一、4番隈川(くまかわ)宗雄、5番斎藤為信、6番川原汎(ひろし)、7番磯猴(こう)、8番北里柴三郎、9番池田陽一、10番髙橋盛寧、11番浦島堅吉、12番山根丈策、13番中山専太郎、14番緒方太郎……26番黒柳精一郎となっている。この授与式で祝辞を述べたのは、文部大臣の福岡孝弟(たかちか)(1835~1919、五ヶ条の御誓文の起草者の一人)やカール・スクリバ(1848~1905、ドイツの外科医、御雇い外国人医師として1881(明治14)年に来日し、東京医科大学の教授となり、妻・康子を娶(めと)り日本で生を完(まっと)うした)などであった。
 卒業後の進路は、北里が熱望するドイツ留学は席次8番では到底叶わず、次善(じぜん)の策(さく)として内務省衛生局に入省した。この内務省には官員の海外派遣留学制度があったので北里はその制度に望みを託したのである。
 彼は医学校在学中の1878年4月(明治11)に自身が理想とする医学のあり方を世に問うた、それが「医道論」である。
 政治家になりたかった北里は、その医道論の中で ◦江戸時代の封建制度から明治天皇下の中央集権近代国家に生まれ変わる ◦欧米からの干渉を避(さ)け独立国家をめざし、富国強兵、産業を興し国力を高める ◦国家及び国民が「衛生」に無知であることを知る ◦医師は行政と国民の橋渡し役である ◦医師は国民を幸福にして国家を豊かにする役目がある ◦以上を成(な)すには実践あるのみ……と謳(うた)い上げた。実は、この医道論発表の前年、即ち1877年(明治10)、九州に蔓延した「コロナ」は、西南戦争(1877年1月29日~9月24日)の熾烈(しれつ)を極(きわ)める戦場でますます拡散し、中国地方から神戸、大阪、京都、ついには横浜から東京へと進行した。その現実に北里は「世人はいずれも伝染病に対する予防消毒の知識を身につけ、不時の用意を怠らないことは常日頃(つねひごろ)の重要事項である」と医道論に記している。
 一方、行政もこの由々しき事態に手をこまねいているわけではなく ◦患者を隔離(かくり)する ◦感染地域を封じ込め人民の出入りを禁ずる と通達し「虎列刺(コレラ)豫防法心得」、「避病院假規則」を発令している。

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

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