2020年10月1日号
副会長 小林 雅夫
少し前の事ですが、2017年、応仁の乱勃発550年、NHK歴史秘話ヒストリアやブラタモリで、取りあげられました。堀川通りをはさんで、西の陣、東の陣に別れ、約11年の間、京都を焼き尽くす戦争でした。東の陣は東は烏丸通り、北は鞍馬口通り、西は堀川通りと小川通りの間、南は南一条通りの範囲に陣を置き、堀川通り、紫明通り、鴨川、丸太町通りに囲まれた、当医師会の範囲の、中心部にありました。1467年(応仁元年)、畠山氏の家督争いの合戦が、畠山宗全と畠山義就との間で、上御霊神社の森で始まりました。将軍家の後継者問題も絡み、西軍 山名宗全と東軍 細川勝元の勢力争いに発展して、1477年(文明9年)まで11年間も戦争が続き、京都は焼け野原になりました。戦争はどちらが勝ったと言うわけでなく、皆が疲れ切って、収束したようです。その後の復興で、織物業が盛んになり、西陣織として現在も続いています。しかし東の陣は地名として残っていません。戦争を避けて各地に散らばっていた職人が京都に戻り、西の陣では大舎人座(おおとりねりざ)と言う組織で、織り物を生産、東の陣でも、白雲村に練貫座(ねりぬぎざ)と言う組織を作り白羽二重を生産しました。いつの時代も主導権争いがあり、再び西と東の対立が起こったのですが、室町幕府が、西陣の技術を認め、幕府の特権で、両者が合併、西陣織の名前だけが残ったとのことです。この為東の陣は、地名として残らなかったのでしょう。
応仁の乱の勃発の地、上御霊神社、門前には水田玉雲堂(写真)、創業1477年、唐板売ってます。主戦場の小川百々橋の礎石等、この前の大戦(京都では応仁の乱を指すとか)550年に際して、歴史の案内板が作られています。散歩がてら、ブラタモリの気分で、訪れてください。
もし大戦で東の陣が勝利してたら、織り物業が栄えていれば、東陣が残って、当医師会は東陣医師会、西陣医師会は上京西部医師会になっていた?
過去に西と東に別れ、大戦、織り物業でも対立したのですが、現在は、西陣、上東、当時は荒野であっただろう、北医師会、3地区医師会が力を合わせて、地域医療を行っています。withコロナ以降は、更に連携が必要と考えられます。
水田玉雲堂 創業文明9年
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