投稿エッセイ 北山杉 二世代昔の医者からのたわごと

左京 加藤 靜允

 COVID-19の大嵐は峠を越えたかに見えるが,落ちつくのに数年はかかるのであろうか。機能形態医学や代謝医学が華やかに主流をなしていたところに感染医学が重大な働きを求められることになったようである。すでに実学的素養は忘れられてきているから,机上の正論が頻発するのはいたし方の無いことであろう。

 現在の小児科医は少なくなったとは言え未だ日常診療において,流行性の感染症とのつき合いは多い。我々1960年代に小児科に入局したものは,それまで小児に多大の不幸をもたらしていた各種有名感染症が潮が引く如く現代社会から消えて行くのを経験したのである。ポリオ,麻疹の二大疾患に次いで,ムンプス,風疹,水痘・・・と。そしてついに種痘接種の中止にまで達し得たのであった。

 医療従事者が常に感染症の危険に曝されているのは昔も今も変りは無い。安政6年(1859)京都でコレラが大流行した時,私の5代前(父の母方曽祖父)の安藤桂洲は熊谷直恭(鳩居堂)が木屋町御池上ルにつくった「病人世話場」で防疫にあたっていたが,自身も感染して48才で死亡している。この時大坂の緒方洪庵から笠原良策に宛てた手紙に「安藤桂洲コレラの爲メ討死。可悼 可惜事に御座候」と嘆いた,「討死」という表現に桂洲の生き様と洪庵の思いが凝縮されていると府立医大・八木聖弥先生著・近代京都の施薬院(思文閣出版)にある。

 医療従事者になったものは常に感染の危険は背負っているのである。筆者も小児科に入局して多くの白血病の患児の治療をしている内にB型肝炎に感染していた。幸い後年の検査で抗体のみ陽性の身体になっているのを知った。しかし,この同じ頃,生涯忘れ難い女性の一人であるYさんという病棟主任が劇症肝炎を発症し数日で亡くなった時の驚きと深い哀しみは今も想い出す度に涙が湧いてくる。あの頃の小児科病棟の仕事量は現在の労基法から考えれば信じられないものであった。彼女はどんなにつらい事態に直面しても,やさしい顔と言葉で対応できる人だったのである。

 修学院のワルガキの性(さが)のぬけぬ小児科医はよく言ったものである。新しカゼ流行(はや)ったらワシが先ずもらう100人のうち20人から40人ぐらいすぐ感染(うつ)る,そんで感染(うつ)ったもんの100人に1人は死ぬんやで。症状ほとんど出んとグスグスいいながら他人(ひと)に感染(うつ)して廻ってるもんも結構いるんやでと。ちなみに,2019年1月(1ヶ月間の)冬期流行のカゼによる肺炎死者は1,760人であったと言う。

 今回の世界的大流行,それに対する各国政治経済の反応,各国民の生活,毎日のニュースや解説で流される数字を注視している。足らんのもいかんけどやり過ぎも滑稽である。ものを見切っていないということである。死者をその最後の顔を近親の誰れにも会せずに焼却するという権利は国家にも無いはずである。死んだ人間が起き上って抱きついて来るはずもなく,感染危険を遮断しての方法はいくらでもある。この延長線上に医療従事者の子どもを保育所が託らないというようなことが起ってくるのである。

 2020年COVID-19パンデミックの時,或る国の首相が全国民に小さなマスク2枚づつを配ったとの小咄は200年後になっても折にふれてくり返し話されることであろう。もう何時死んでもよい,痛みと苦しみを軽減する以外の治療はすべて謝絶すると日付署名捺印して主治医にお願いをした身であるのに,今回の大流行の3年間の世界的経過だけは見たいなあと生きる意欲を湧かせている次第である。

2020年10月1日号TOP