京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その69―

⃝明治・大正の医療
 北里柴三郎 その11
 1883年(明治16)7月、北里は東京医学校改め東京大学医学部を卒業、ドイツ留学は叶わず、内務省衛生局に着任した。内務省は10年前の1873年11月10日に設置された内政一般を所管する行政機関で1947年12月31日まで存在した。初代内務卿は大久保利通(1830~1878)である。内務省は道府県庁を直接監督下に置き、地方行政を通じて各省の所管事項に関与していたので内政の要(かなめ)として重要視されていた。
 北里は長与専斎から改めて通達されるまでもなく、自分の直属の上司が後藤新平(1857~1929)であり、後藤が自分より半年早く着任していることも承知していたし、既にかなりの傑物(けつぶつ)だと省内で噂(うわさ)されていた。なんでも後藤が須賀川医学校を卒業して愛知県病院長及び愛知医学校長を務めていたのをその有能ぶりと将来の可能性を見込まれて、長与が内務省に引き抜いたということである。しかし、後藤は自分より4歳年下であり、はっきり言って自分は官立東京帝大卒だが、後藤は福島の須賀川(すがかわ)病院内に併設された須賀川医学校卒である。どうにも彼の言動が気に障(さわ)り、「虫が好かん(すかない)」のであった。その上、医学校時代は超優秀な成績を収め、かつ寄宿生を統率し、なんと学生にもかかわらず、見習い医員として須賀川病院に来院する患者の診察にも携わっていたというのである。後藤の診断は慎重ながら大胆で診立(みた)てに狂いはないと大評判の医者であった。この評判のもと、後藤は須賀川病院を皮切りに愛知県病院から内務省衛生局、ドイツ留学へと歩を進める。但し、ドイツ留学の条件は厳しく、ほゞ私費に頼るもので1890年(明治23)に渡独するが、往復旅費と毎月の給料のみの支給であった。留学先の大学はミュンヘン大学医学部で、後藤は2年間で卒業単位を取得し、あまつさえミュンヘン大学の医学博士の称号も取得したのである。後藤は留学中に既に4年前の1886年1月から留学していた北里に出会う。北里はベルリンのコッホ研究室に籍を置いていたが、コッホにかけあって後藤を自分の研究室に招き、3ヶ月程、後藤は北里のもとで細菌学を学んで2年余りのドイツ留学を終え、ドイツの医学博士号を携(たずさ)えて1892年に帰国、12月に長与の推薦(すいせん)で内務省衛生局長に就任した、後藤35歳。
 以後、後藤の快進撃はとどまらず、日本の政治中枢に食い込んでいくのである。衛生局長就任3年後の1895年(明治28)、臨時陸軍検疫部勤務、1898年(明治31)には台湾総督・児玉源太郎(1852~1906)に見込まれて台湾総督府・民政局長に指名され、1898年3月から6月まで台湾の産業育成に尽力し、のち民政長官として1906年(明治39)11月まで台湾で勤務、次に日本の国策に則(のっと)って満州に進出。満州鉄道総裁に就(つ)き、東南アジア・中国大陸進出を押し進め、国内では鉄道院総裁の責務として全国の鉄道網羅実現に精力を費した。
 そして後藤の東京市長就任(1920年12月~1923年4月)「一生ニ(に)一度国家ノ大犠牲トナリテ一代貧乏籤(くじ)ヲ引イテ見タイモノ。東京市長ハ此兼(このかね)テノ思望ヲ達スル一端ニ非ザルカ。……

―続く―

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2025年2月15日号TOP