2025年3月15日号
⃝明治・大正の医療
北里柴三郎 その12
前月号は医師で政治家の後藤新平(1857 〜1929:江藤新平(1834〜1874)でも後藤象二郎(1838〜1897)でもない)の人物像に終始したが、実は、北里は何が何でも上司の後藤から「板垣退助・暗殺未遂事件」のコトの顛末(てんまつ)を聞きたい誘惑から逃れることが出来なかった。
その事件は、1882 年(明治15)4月6日、即ち、北里が1883 年(明治16・30 歳)に東京帝国大学医学部を卒業した前年に起きている。そして、その事件に深く関与した関係者の一人が後藤新平であった。
時は、幕末から明治維新にかけて、19 世紀後半、江戸幕府の封建体制の世の中から脱却して、立憲制に基づく近代的統一国家をめざしている最中(さなか)の出来事であった。ともかく急激な政治的変革には、様々な歪(ひず)みがついてまわる。血生臭(ちなまぐさ)い暗殺殺傷事件も多発した、その被害者たちは日本人のみならず、開国を迫り、いち早く旨味(うまみ)のある利権を得ようと、はるばる海を越えてやってきたイギリス人・ロシア人・オランダ人・プロシア人・フランス人・アメリカ人たちも例外ではなかった。
しかし、板垣退助(1837(天保8)〜 1919(大正8))の未遂事件(1882.4.6)は犯人が日本人・相原尚褧(なおふみ)(1854 〜 1889 ?)であった。犯行後、裁判を経て無期徒刑(終身刑)の判決を受けている。ところが板垣自身によって相原の助命嘆願書が提出され、また1889 年(明治22)・大日本帝国憲法発布の大典にあたり、国事犯の罪人は悉(ことごと)く放免となって、その年(1889)の3月29日、相原は収監(しゅうかん)先の北海道空知集治監(そらちしゅうじかん)から釈放された。相原は5月11 日、東京に出て板垣に面会を乞(こ)い求めて、自らの犯行を悔悟(かいご)し重ねて陳謝した。その相原に対し、板垣は「なお、将来において己(板垣自身)の行動に不逞(ふてい)と認める事があれば、何時にても再び刃(やいば)を加えても是(ぜ)としよう」と説いた。相原は板垣の度量の広さと温情に深く感じ入り、その場を退去した。
相原は尾張名古屋愛知県の生まれ。
1879 年(明治12)・愛知県師範学校に入学し、2年後に卒業(1881年)、愛知県丹羽郡稲置村(のちに犬山町に)の犬山小学校の訓導(正規教師)になって赴任したが、3ヶ月後(1881年、5月)には南設楽(したら)郡田原(たはら)村の小学校に転任する。病気がちで休職になり、療養も可能な環境を求めて、その年(1881)の12月に知多(ちた)郡横須賀村の横須賀小学校に転勤した。彼(かれ)、相原は人づきあいが苦手(にがて)で、無論、政治結社に所属することはなかった。但し、「東京日日新聞」(1872 年に創刊された東京で始めての新聞、現・毎日新聞の前身)の愛読者であった。この新聞は政府寄りの官権派で緩(ゆる)やかな穏健(おんけん)的記事を掲載(けいさい)しているので相原は大いに賛同すると同時に民権派の自由党には強く反発した。すでに10月(1881年)12 日に「国会開設の詔(みことのり)」が発布されていて、1890 年(明治23)に議員を召集し、国会を開催するという国の方針が示されたのちも、いまだ過激的で急進的な不敬事件があとを絶たないでいる。故(ゆえ)に民権派の自由党は「日本将来の賊(ぞく)」であるから、その党首たる板垣は葬(ほうむ)り去(さ)らねばならぬという結論に至った。それにしても相原! 師範学校を卒業して2年目、28 歳の若き小学校教師が凶行に及ぶ。
―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)