2025年4月15日号
⃝明治・大正の医療
北里柴三郎 その 13
暗殺横行の時代
前月号で述べたが、北里(1853~1931)は後藤新平(1857〜1929)を通して板垣退助・暗殺未遂(みすい)事件の顛末(てんまつ)窺(うかが)い知ることになった。犯人は 28 歳の若き愛知県小学校教師で穏健思想の持ち主、「相原尚褧(しょうけい)」(1854 ~ 1889)である。相原としては、すでに「国会開設の詔(みことのり)」が 1881 年(明治 14)10 月 12 日に発布されている今となって、いまだに過激的不敬(ふけい)事件が後を絶(た)たないでいることに不快の念を覚(おぼ)えるのである。そこでその矛先(ほこさき)を自由民権運動を推進する自由党の党首たる「板垣退助」(1837 ~ 1919)に向けた。
板垣はいずれ「日本将来の賊(ぞく)」になるだろうから1882 年(明治 15)4月6日、相原自ら「勤王(きんのう)の志(し)止(や)み難(がた)く国賊板垣を誅(ちゅう)す」と言い放ち、短刀で板垣の左胸を刺し、次に右胸、さらに左手と左頬を刺したのである、板垣 45 歳。
その短刀は犯行に及ぶ5日前の4月1日の夕方、相原が愛知県・熱田神宮(あつたじんぐう)近くの古道具屋から手に入れたもので、刃渡(はわた)り9寸(約 27cm)幅7分(しちぶ)(約2cm)の刃物であった。
相原はその刀剣(とうけん)を懐(ふところ)に収(おさ)め、熱田神宮に戻ってコトの成就(じょうじゅ)を祈願したのち3日まで名古屋に宿をとって留(とど)まった。4日午後に名古屋を出立(しゅったつ)し岐阜へ赴き、板垣一行が宿泊するという「玉井屋旅館」に到着した。玉井屋で一泊した翌日の5日は宿泊を断られたため、近くの「紙屋旅館」に移り、4月6日を迎えた。
一方、板垣は3月 10 日、東京を出立する。竹原綱(つな)、宮地茂春、安芸喜代香たちと自由民権運動推進のため東海道遊説(ゆうぜい)に出たのだ。一行は静岡・浜松で講演、ついで3月 29 日に名古屋入り。4月4日まで近隣の市町村で遊説したのち、5日に岐阜市到着。「玉井屋旅館」に宿をとる。
4月6日、現・岐南駅から金華山ふもとの岐南市西川手1丁目 95「神道(しんとう)・中教院(ちゅうきょういん)」に赴く。午後1時開会、当講演会の幹事・内藤魯一(ろいち)(1846ろいち~ 1911)の演説から始まった。彼は東海地方の民権運動旗振(はたふ)り役である。会は大盛況、恙無(つつがな)く進行し、板垣の登壇となった。自由民権運動の意義とその役割の重要性などを聴衆に熱(あつ)く語りかけ、演説が佳境(かきょう)を迎えた刹那(せつな)、突如、相原が刀剣を振りかざして板垣を襲(おそ)ったのである。板垣 45 歳。
刃渡り9寸の短刀で右胸と左胸を刺され、手や左頬(ほほ)など計7ヶ所の刺し傷を負(お)った。
刺された板垣はと言えば、12 歳の頃から本格的な剣術・居合(いあい)術の修業に励んでいたこともあり、上手(うま)く交(か)わして大事に至らずにすんだ、その証拠(しょうこ)にこの年の 11 月 11 日に欧州の旅に出ている。
ところで、板垣にとってこの未遂事件は初めてではなかったのである。上述の件により去ること19 年前、1863 年(文久3)2月に暗殺未遂事件に遭遇している。当時、板垣は上士(じょうし)の若手、穏健な勤皇派として京都の土佐藩邸に詰めていたのだが、尊王攘夷(そんのうじょうい)を掲げて結成された過激な土佐勤皇党から“不逞(ふてい)の輩(やから)”として命を狙われていた。垣はその危険を察知、敵につけいる隙(すき)を与えず事無きを得ていた、時に板垣 27 歳。
―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)